チベット仏教

ゾクチェン根本詩頌

人生における過ちと不満は、自らの激しい煩悩による。

(煩悩=社会的価値観の縛り)



煩悩の原因は統制されない心にあり、鋭い注意力によって、再び正しい状態に戻さなければならない。

特に欲情を起す対象を観想し、五つからなる構成体に識別せよ。

(五蘊=色:物質および肉体、受:感受作用、想:表象作用、行:意思・記憶、識:認識作用・意識)



まずは身体より分析することから始めよ。

肉、血、骨髄、脂肪、内蔵、四肢、感覚器官、大便、小便、寄生虫、体毛、爪など、身体の不浄なる部分を識別せよ。

これらの部分を構成要素や感覚領域にまで、分類し類別せよ。

次にこれらをこれ以上分割することが出来ない、微粒子にまで分解し、分析せよ。

執着が起ころうが起こるまいが、ただ不浄のものに過ぎないとこの身体を見よ。

身体は汚い組織、管と汚物の塊。またぶくぶくした泡の如しと念ずるべし。

この洞察の流れが止んだとき、受・想・行・識の、それぞれの本質に対しても、細かく分解し、分析せよ。



泡や蜃気楼、芭蕉、魔法の幻影の如しと、対象を見るとき、それらに対する欲望は起こらないであろう。

つまり欲望が消え去るまで、洞察の流れを保っておくこと。

欲望が消え去れば、その対象への考察をやめ、ほかの像へ次々と移り、それを試すこと。


このようにして、誤認された知覚のすべては、実態のない構成体であるとわかる。

(五蘊・皆・空=すべての存在に実体がない)



これらの実体のない構成体に着目し、ただ瞬時に消滅するものとして、立ち起こる現象を見ることが、

正しい黙照といえる。

(黙照=照見 自己をありのままに見る。)


生じたものはついには滅する。

過去だけでなく現在と未来の世界も。

必然的に消滅することに、気づくべきである。

条件付けられた存在こそが、苦しみの原因であると知れ。

条件は誰かの言った言葉で縛られた思い、こうすべきだ・・・云々)




いかなる生き物も突然に、孤独に死ぬために生まれてくる。

(死神を背負っていない人間はいない)


世間のいかなる形態(色)も、移ろい行く(空)ことを理解したとき、存在の織りなす無常を見る。

(諸行無常)


つまり、いかなる形態が存在しようと、黙照という心の力によって、存在の無常が感得される。

いかなる欲望の対象が形成されようとも、稲妻の光、泡、雲のように、揺らめくものと観、

その欲望が消え去るまで、この洞察の流れを保っておくこと。

その後、この多くの部分よりなる集合体に対し、

苦しみの実相、あるいは、必ず、次の苦しみとなるであろう快楽が、

はかない、刹那的状態にあることを見よ。

人類すべての苦しみと、その基盤である心身の仕組みが、いかに大きいかを黙照せよ。

(無:眼・耳・鼻・舌・身・意識)


心身は本質的な欠陥を有するがゆえに、

複雑に絡みあう苦しみの堕落から、逃れられる可能性は、針一本の隙間さえない。

ゆえに心身は苦しみの源、不浄なる道、燃え盛る地獄、共食いの島であるといわれる。

(諸法無我)


これが消え去るまで、この洞察に出来る限りとどまるよう。

苦しみを捉える最後の洞察としては、

「われ」をあらしめていると思うものに対しても、はかない塊として、

この集合体を分析し、自己を空性なるものとして捉えよ。

滝や雨が降るように、また空き家のように、観て、それが消え去るまで、この確心の状態にとどまれ。

この認識が薄らぐときには、先のように段階的に試みよ。

前の修行を忘れてしまったときには、一つの対象についてさまざまな分析をするように。

何度も繰り返しこの意味を考察するために、

時には他者の心身構造を観、時には自身の心身構造を調べ、

時にはすべての条件付けられた存在を考察せよ。

(条件付け=言葉で切り取られた)


このようにして、すべての執着は滅する。

要するに、すべての思考を捨て去り、

多、無常、苦、空性の考察という、この四つの分析修習の輪を、常に転ずるべし。



多少分析らしいことが巧みになっても、さまざまな対象をはっきりと知るまでは

猛威をふるう草原の炎の如く、絶え間ない、分析修習の完成に努めること。



あらゆる前生の間に、歪められはっきりとせず、

散漫としたこの「われ」は、白昼夢と誤解の傾向によって創られた。

この妄想は落ち着きによって、再び元に戻されなければならない。



散漫な気が衰えて、計らいが静まり、いかなる煩悩も心の中に起こらなくなるとき、

心の静寂の中でくつろぐ。

精神活動が再発したら、前のような分析を続けよ。

常に対象を明確に思い起こし、曇りなく知る認識力を保ち続けよ。

忘れやすくなり、煩悩が起こるときこそ、敵に対する剣として、分析を試みよ。

暗闇の中に差し込む光のように、注意深い考察の修行は、

有害な欲情の痕跡さえ、跡形もなく滅し去る。

不完全性を理解し、条件付けられた存在の真相を、深く見るほどに、

絶対的な安らぎと、はるか彼方まで透き通るほどの清浄さを、知ることであろう。




自他の心身や、条件付けられた存在の、多、無常、苦、空性を、

絶え間なき反復を通して、認識せよ。

労することなく、心は完全なる理解力によって満たされる。

視覚は幻であると知れば、欲望の源は静められる。

欲望という破壊者より解き放たれ、心は静まり、晴れやかとなる。


自己を制した清らかさに触れるとき、平和な静寂の三昧が成し遂げられる。

(三昧=サマーディー:心が統一され安定した状態)


三昧は鋭い洞察力を、呼び起こす。

これは三乗に共通する道の入り口である。

(三乗=小乗仏教・大乗仏教・密教:金剛乗)




相互依存性として起こり、幻の如く見えるすべての事象は、

(相互依存=因縁生起=実体はない=ご縁により生起する)


本来、不生。

本質は空。

実体的基盤は何も存在しない。

それは一、もしくは多などという、相対性から離れている。

(非言語概念世界=空性)



如来蔵である、相対性のない絶対的領域。

それを覚るならば、生と死の辺際を越えて、大いなる無住処涅槃に到達する。

最勝なる清浄と至福は、大いなる無為と呼ばれる。

それは大いなる「われ」の特性であり、無上の波羅蜜、奥深き核心である。

(波羅蜜=智慧の完成)



マハーヨーガ、アヌヨーガ、アティヨーガのタントラにおいて、先天的に備わる大楽の境地は、

自然(じねん)に生じる知恵によって開かれる。

ここにおいて、すべての教えが極まる。


仏陀の具現である、上師(ラマ)の導きに従い、ゾクチェンの自然なる解脱の伝統において、

大乗の顕教と密教の両方に、共通する前行として修行する。

この妙観察なる最勝道により、条件付けの当惑から退くことが出来る。


最初に分析の功徳によって、欲情反応はもはや起こらなくなる。

次に、心身の空性を確信することにより、三界に対するすべての欲望は滅せられる。

徐々に、すべての迷いの痕跡は、空性の静寂の中に消え去り、何ものをも望むことなく、

「われ」や「我がもの」というすべての執着から、遠く離れ去る。

何ものにも固執することなく、慈悲を抱き、恐れることなく、

法界の大空を飛ぶ鳥の如く、人生を飛翔する仏子は、法雲地へとたどり着く。


尊い伝統の教えでは、止観の前行である、心の分析浄化は、

(止観=止:意識を呼吸に置く冥想、観:全身を観る冥想法)


三乗の道において、きわめて重要なものである、と説かれている。

(三乗=小乗・大乗・金剛乗:密教)


心の分析浄化の考察を、繰り返すほどに、煩悩は小さくなり、

ほんのわずかな欲望にも、気づくことが出来るようになる。

徹底的考察は平静さを容易にする。

火によって錬金された黄金が、柔らかく順応性に富むように、

欲望から解き放たれた心も、そのようなものとなる。


無数の聖なる経典には、神々の数千年に及ぶ、

三宝へのあらゆる供養の功徳も、指をはじく一瞬ほどに得た、

(三宝=仏:覚りの智慧 法:教え 僧:修行者)
(功徳=仏法僧に供物を捧げることによって得たメリット。)


無常、空性、無我の分析による功徳には及ばない、と説かれている。

(四法印=諸行無常・諸法無我・一切行苦・涅槃寂静)


仏陀曰く、

大乗の教えをまとめた詩頌の吟唱は、八万四千の法門を覚ることに等しい。

この教えの意味をよく反復していくと、百千万の経典も、要訣はみな同じであることに気づく。

それゆえ行者は、修行に専念することにより、奥深く広大な智慧の蔵を、労することなく手に入れ、

速やかに解脱に導かれていく。


この論釈の善と、出離がもたらす甘露の力を持って、

(出離=出家して仏門に入ること)



末法の世で苦しむ一切の衆生が、安らぎの境地に達せられますように。


                  (静寂と明晰 チベット仏教ゾクチェン 修習次第より抜粋)




これらの詩頌は、1891年7月18日に、ミパム・ナムパル・ギェルワによって書かれた。 


一切の衆生に幸いあれ!