ユングとチベット密教
マンダラに出会う


フロイトとの別れのあと、6年間にわたる無意識の闇とのすさまじい格闘の後、
ユングは一筋の光明を見出した。
それがマンダラである。

マンダラはサンスクリット語で『円』を意味し、
自然のあらゆる要素に見出される円のパターンを表しており、
歴史を通じすべての民族の絵画や舞踏で表現されている。

それは人間の心の奥深くに住まうイメージであり、構築されえない内なるカオスに形を与え、
調和と秩序を回復する自然の理法なのである。

ユングは経験を通じて自分の描くマンダラが、自分の内面の表現になっていることを発見した。
彼の心の状態が変わるごとに、マンダラも変化し、ユングはそれを自然とスケッチしていた。

『私は自分がどこに連れ去られるか知らないままに、その流れの中に身をまかさねばならなかった。
 しかしながらマンダラを描き始めてからは、私の踏んできたすべての道は、唯一の点・・・
 すなわち中心点に導かれていることが分かった。
 
 マンダラは中心であることが分かってきた。
 それはすべての道の典型である。
 それは中心すなわち個性化への道である。』

彼は夢を通して自己が方向付けと意味の原理であり、原型であることを理解した。
その中に治癒の機能が存在している。

彼のとってこの洞察は中心への接近、したがってゴールへの接近を意味している。
そこから、彼の個人の神話の最初の暗示が生じたのである。

・・・・ユングが集合無意識を発見し、原型と自己という概念を発展させたのはこの時期であった。


すべての見えているものは自分の心の投影。


マンダラの神聖幾何学はチベットの僧侶が深い冥想で顕現したもの。
見つめているうちに、深い境地に誘い込まれる形。

      形はエネルギーであり、マンダラは□の男性性と○の女性性との統合の形。△は動きのエネルギー。
  
      これらで出来ている形態を見つめることで、原型の存在する集合無意識の世界に潜入できるのです。

錬金術と道教


彼がこの時得た洞察は、確固とした科学理論に基礎付けられる必要があった。
この仕事を展開していく中で、ユングは錬金術と出合ったのである。

ユングは、錬金術の場合はキリスト教の場合と違って、
女性原理が男性原理と同様に重要であることを発見した。

錬金術に現れる象徴は彼を魅了した。

しかし彼が錬金術を本当に理解したのは、中国の錬金術(練丹術)の古典である
『黄金の花の秘密』を読んでからであった。
これは同時に彼が東洋の哲学と精神的伝統に関心を抱くきっかけとなった。

ユングにとって「錬金術の秘密は・・・高次なものと基礎的なもの・・・

意識と無意識を、混ぜ合わせ溶け合わせることを通じて人格を変容させることであった。」


道教(気功)は孔子の理想的な生き方に対する批判であった。

かくあるべきという理想がかなわない人々にとって、現世批判の道教は、残された夢であった。

修行をして仙人になり、雲に乗って去っていく。
汲々とした人生を生きるエネルギーを失った人々は、この夢により新たな力を取り戻した。

      正統派キリスト教により、異端思想を禁じられた西洋世界もその息苦しさを、錬金術に求めた。
      世界観の変容(パラダイムシフト)が人々の心を開放し、歓喜を与える元となるのだ。

ユングと密教的冥想法


粘り強く修行し、意識のより高次の段階が発展するにつれ、
心の中の仏は、冥想者を強く揺さぶるほどの、ダイナミックなリアリティとなる。

ユング心理学の用語で言えば、これら冥想者の心の中の仏は、原型が顕現したものである。

・・・・タントラの霊的修行法においては、冥想と言う心の活動においては、
真言(マントラ)と印(ムドラー)が用いられる。

真言は聖なるコトバであり、耳で聞く象徴であるが、具体的な意味があるわけではない。
しかし音楽や詩と同じように、思考や通常の言葉にはない、
奥深い感情と意識の状態を呼び起こす力を持っている。

灌頂を受けたものにとっては、実に速やかにかつ直接的に、
彼らの内なる力に語りかけ、それらを呼び起こす効果がある。・・・

印は内的な状態を身体を通して外に表現するものであり、
真言と同じように、冥想を助けより高次な意識を刺激するのに役立つ。

存在の三つの相、身口意は印を結び真言を唱えることで調和的に働く。
そして冥想が深まると、原初的で宇宙的な力が劇的に目ざめる。

そのとき修行者は別種のリアリティに入り込むのである。


真実は言語では表せない。


そう考えた叡智は、真実(リアリティ)の伝承を、
印(ムドラー)と真言(マントラ)と絵画(マンダラ)に秘めた。

   密教(タントラ)コード(秘密)はこのときから始まったのだ。
   自らが考える、このシステムが三密(身口意)の中に秘められているのだ。

   人はなぜ、ジグソーパズルをするのだろう?
   数多くのヒントを基に全体像を想像し、構築する。
   完成した・・そのときの歓喜が人々を魅了するのだ。

   思考とはそうしたもので、誰が誉めてくれるわけでもない。
   このとき誰かに正解を教わったら・・・こんなにくだらないことはない。

   正解を求める力こそ・・求道心にも似た・・真理を求める心なのだ。

   簡単に正解を与えられて満足する、一般人にはならないほうがいい。
   真実は・・・どんな答えであれ・・・あなたの出した答えこそが・・・正解なのだから。

プレローマ

無とは充満と等しい。

無限の中では充満は無と同じだ。

無限にして不滅なるものは、なんらの特性も持たない。

つまりそれはすべての特性を持っているからである。・・・C.G.ユング

すべてプレローマから区別されたものは対立する組みである。
したがって神には常に悪魔が属している。・・・

プレローマのうちに認められるのは仏教の空と言う概念だけでなく、
両極とその統合という最も重要なタントラの概念である。

それがあらゆる金剛乗(密教)の冥想修行の最も核心なのである。

同時にユングの超越機能という概念は、プレローマの発展であり、実際的応用である。

霊的変容


ユング心理学とチベット密教の究極目標は、霊的変容である。
ユングはそれを自己実現、全体性と表現している。

一方チベット仏教にとって、それは仏性であり、あらゆる存在のための悟りである。

チベット仏教によれば、あらゆる個々人がブッダ(目覚めた人)になり、
至高の変容を獲得する可能性を有しているのである。

仏教によれば、光とより高次への意識の衝動がいつも存在してきたし、
いたるところにあるのだとユングは言う。(如来蔵思想)

金属を金に変える錬金術師のごとく、心はあらゆる出来事を超越的智慧へと変容させ、
それを覚りを獲得する手段として使用することができるのである。

その荘厳な力は我々のうちにあって、それ以外のどこにもなく、また我々を離れては存在しない。
しかしそれを認識するためには意識という鍵を必要とする。

無分別智=不二


タントラ仏教(密教)の教えによれば、覚り解脱は今生で達成できる。

それは我々が現実を知覚する際の、根本的変化からなっている。

つまり、私または自我意識が注意を普遍的意識へ向けたときの
「意識の最も深い座への転回」が大切なのである。

それは「そのすべての無限性と、全包含的な一体性の直感的な体験」なのである。

その体験は見かけの通常世界を超えた世界であると記述できる。
そこではすべての反対物は存在しないのである。

この開かれた空間ではあらゆる限界が捨て去られる。
これでもなく、あれでもなく、これと、あれといった排他性はない。
すべてが含まれ、何物も拒まれることはない。

これが非二元性、つまりプレローマの世界である。(無分別智)

そこからすべてが生じ、そこにすべてが消えていくのである。
仏教ではそれを、空と呼ぶ。

それは因果性と共時性の二つの原理を包み込む、開かれた空間なのである。

原型の象徴・ターラーとダーキニ


チベットで最も重要かつ人気のある仏はターラー菩薩である。
彼女はブッダの女性的側面である。
チベットでは彼女はあらゆるブッダの母としてあがめられている。

ターラーはその本質において理性を超越する、
完全に発達した智慧を具体的に表現している。

ユング的用語で言えば、彼女は母親原型を意味する。
とはいえ彼女はあらゆる対立物、肯定的否定的なものを自らのうちに統合した、母親のイメージである。

穏やかな神々、怒れる神々以外にもう一つの神々が
チベット仏教では重要な役割を果たしている。

彼らは神聖にして悪魔的性質を持つ、よく知られたダーキニであり、
人間に霊感を与える衝動を意味することがある。

彼らは知識と魔術的力の女性的化身であり「冥想する女神であり、霊的援助者」である。
彼らは無意識の暗闇に隠れている眠れる力を覚醒させることができるのである。・・・

最高ランクのダーキニは金剛喩伽女である。
彼女は霊感を与えるミューズの姿をしており、
潜在意識の中に眠っている体験の永遠ある宝を救い出し、知性を超えたより高次の領域へと高める。

ユング心理学においては金剛喩伽女とは、原初的イメージであって、
媒介者のようなものとして機能し「いろいろな宗教が有していた、あの救済の力を証するのである。」

ダーキニという密教的象徴は、西洋では主な原型の一つ、アニマと関連している。
アニマは両性の心に作用する。

女神なくして男神はありえなかった。
チベット仏教図像学で最も広まっているイメージは、恍惚のうちに抱き合っている父と母である、ヤブユムである。
ヤブユムは男性的要素と女性的要素の完全なる結合、根本的な内なる経験である反対物の結合を象徴しているのである。

錬金術とチベット仏教


自我という世俗的リアリティを象徴する物質が神を隠していると考えは、
グノーシス神話の重要部分であり、錬金術で強調されているテーマでもあった。

キリスト教の救済のわざとは対照的に、錬金術のそれは仏教徒の態度に大変似ている、積極的な努力である。

「人間は救済の作業(オプス)を遂行する義務は自分にあると感じ、
 物質の中に囚われている『宇宙の魂(アニマ・ムンディ)』こそ悩める状態に、
 それゆえ救済を必要とする状態にあるのだと考える」

錬金術師が信じていたのは
「神聖な秘密を内包する物質は到るところに存在する、この上なく汚らわしい汚物の中にさえ見出すことが出来る」
ということである。(不垢不浄)

タントラ仏教が同じく信じているのは、良きにつき悪しきにつけ、あらゆる出来事と状況が、
霊的変容の乗り物になるということである。

何物も拒否してはいけない。

そしてユングの心理学もまた心の持つあらゆる面を歓迎し、その一部たりとも拒絶することはない。

そして心の深みと高み、暗部と明部を日常生活における単純な内外の出来事の中に見出そうとするのである。

チベット死者の書


チベット死者の書によれば、心が解脱を得ることができるのは、死の直後なのである。

そのとき意識の最も微細なレベルである明晰な光の心に到達するが、それとなじみがないため、
覚りに達するための明晰な光の心を使う機会を逃してしまうのである。
その代わりに次第に無意識と生まれ変わりの世界に落ちていく。

そのとき輪廻の輪と煩悩が、ここに再び始まるのである。

地下世界への旅で、心が出会うのは初めは美しく平和に満ちた・・後になると恐ろしく憤怒に満ちた仏である。

『死者の書』の教えるところでは、仏はそのようなものとして、本来空ろなものや幻影として認識する必要がある、
心の投影に過ぎないのである。

そう認識したとき、葛藤が・・すぐれた智慧へと変容するのである。