世界と宇宙
認識の主体

宇宙というコトバは古代の中国語であり、
「宇=空間」と「宙=時間」というコトバによって出来上がっている。
宇宙は物理的世界・闇の世界である。

その後中国に仏教がやってきて、世界(loka dhatu)というコトバが出来た。
ローカとはラテン語ではluxと呼ばれる・・・光の世界である。

仏教によると人間の業によって作られた世界は、人間の心の中にしか存在しない。
この心の中の世界には二つのものがある。

それが「わたし」とそれ以外だ。
わたし以外の事物を世界と呼ぶ。

ところが世界とはあなたの心が作った幻想(投影)である。
自我という受像機(思考する機械)の前には、物語というフィルター(眼鏡)がかかっていて、
そのフィルターを通して、あなたは外の世界を感知しているのだ。

最近の物語は、損得勘定の物語だ。

社会に出て、稼いで・・・死んでいく。それが人生の目的になってしまった。
これを仏教では社会的価値観(煩悩)と呼ぶ。

わたしには、日本の多くの人が、アメリカ製のサングラス(レイバン)をかけて
外を観ているのを・・・気づいていないと思えるのだ。

仏教の世界観では、わたしたちはこの世に霊的修行の旅のために生まれてくる。
あなたが、あなたのカルマで親を選び、この世に生まれてくる。

最初は親や社会の価値観を洗脳され、その価値観を求めるが・・かなえられず挫折し・・・
その結果として・・・霊的価値観の発見をするのだ。

魂(無意識=スピリット)の求めているものと心(社会的価値観)の求めているものは
相反することが多い。

心が現世の価値観で縛られているように、わたしたちの魂(無意識)は、
前世でやり残した業(カルマ)で縛られているのだ。

コトバで考えているわたし

わたしたちは心に浮かぶビジョンを通してものを考えている。
しかしビジョンを言語化するとその言語に縛られてしまう。

デカルトは「我思う・・・ゆえに我あり」と考えた。
しかしI think ・・・・。という構文(主語+述語)を刷り込まれた彼には、
主語を省略するという東洋の思想は持っていない。

主語である我はあるのか・・・ないのか・・・それが問題だと仏教では考える。
自他を分けてしまう考えが、同じ人類であるわたしたちを・・多国籍の人々と分けてしまう。

国籍の違いが、肌の色の違いが、言語の違いが戦争を生み出す。
このような考えを仏教では分別智(二元論)と呼んで否定している。

水を喩えに考えてみると分かりやすい。
このコップの水を飲むと・・・水は私になる。
私の体重の70パーセントは水だから、わたしは四捨五入すると水かもしれない。
しかし小便をすると、それは自分の一部ではないように思える。

流した水は・・・海に流れ・・・蒸発して雲になる。
雲は雨として地上に降り・・山の保水力を通して時間をかけて川になり、水道局に取り込まれる。
そして水道の蛇口からコップの水になる。
だから水を汚すことはわたしを汚すことになる。

小さなわたしは肉体の私。
だけど大きなわたしは循環している私。

Natureというコトバが西欧社会からやってきたときに、
明治の人が自然(しぜん)と翻訳した。
それまで自然は自然(じねん)と呼ばれていた。

そのときの社会は「天・人・地」一体の社会だった。
農地に雨が降らないのはその地に住む人々の行いが悪いと考え、祈りの儀式を行った。
神と人とが一体だったのだ。人々は大自然の敬いながらも、怒れる神として恐れていた。

しかし西洋の考えは、自然を「人+自然」と分けてしまった。
二元論だ。

自然を開発することが善になってしまったのだ。
自然環境の破壊はこのときから始まった。

自と言うコトバは、目の前の鼻を指すコトバ(象形文字)だ。
「自分とは何?」と聞かれると、人は目の前の鼻を指差す。
自と言うコトバには「みずから=自力」と「おのずから=他力」の意味がある。

「みずから」とは動作の主体が自分にあることを示す。
ところが「おのずから」とは動作の主体が自分にないことを示す。

同じ一つのコトバがまったく正反対のことを言っているのだ。

自他不二の世界
ギリシャのデルフォイ神殿には「おのれ自身を知れ!!」の額がかかっていた。
映画マトリックスで預言者の部屋でネオがその言葉を聞く。

小さな自分とは、自分の主体が肉体のわたし。
大きな自分とは自分の主体が魂(無意識)のわたし。

自由な観察をすれば、わたしは水であり、小便であり、川であり、海であり、霧であり、
雨であり、雲であり・・・万物と繋がっている。

このような観察の出来る人のことを「観自在菩薩」と呼ぶ。
梵我一如(宇宙とわたしは一つ)とも言う。

だから世界は、わたしの心の中にあるのだ。

あなたの認識のフィルターが変われば、観えているものが変わるのだ。
観えているものを変えるために、わたしたちは新しい刷り込みをしなくてはならない。
それがお経や真言の読呪なのだ。

ところが損得勘定の古い世界観を捨てないと、新しい世界観は刷り込めない。
自分にこだわる心を一回は手放さないと、観自在の世界には入れないのだ。
そして、失敗や挫折がその働きをしてくれるのだ。

失敗や挫折・・・すべてに意味がある。
この体験を通して、光り輝く霊的世界に入ってこられるのだから。

金剛界+胎蔵界


真言宗ではこの世界を二つの世界の統合されたものと観る。
それが金剛界(バジュラ・ダツ)と胎蔵界(ガルバ・ダツ)だ。

金剛界は精神の世界=秩序ある光の世界。

胎蔵界は物質の世界=混沌の宇宙。

陰陽の黒と白の勾玉を想像してもらえば良い。

社会的価値観に縛られていると、この世は混沌に見える。
しかしそこから離れることが出来ると、この世は秩序ある世界(マンダラ世界)なのだ。

マンダラというコトバはサンスクリット語で秩序ある世界(円満具足)という。
ところが日本にやってきたそのコトバは、マダラ模様(バラバラで良くない)となってしまった。

世界はあなたの認識が作っている。
あなたの心を社会的価値観から解き放って(Free your mind)、世界を観る・・
それが仏教の修行法なのだ。

社会的価値観で洗脳されたコトバで、あなたの魂は縛られている。
密教のパンテオンの中に不動明王がいる。

不動明王は左手に縄を持ち、右手に剣を持っている。
宗教象徴学では、不動明王は苦しみを取るためにあなたを縛っている
社会的価値観の縄を切れと叫んでいるのだ。

「誰かの言ったコトバ」で縛られて苦しんでいるあなた。
「コトバの縄を断ち切って、自由になること。」
それが、自らが考えることを始めることなのだ。

あなたの考えていることのほとんどは誰かが言ったこと。
釈迦やイエスの言ったコトバではないのだ。

彼らのコトバに耳を傾けてみよう。
苦しみは自らが作っている事に気づくはずだ。

世界が平和になる

密教では、護摩木に願いを書くとその願いが叶うとされています。
最近の私の願いは、世界平和なのですが、それは私の心の中で起こるのです。

空海は般若心経秘鍵の中で

「それ佛法はるかにあらず・・・心中にしてすなわち近し。
 真如(しんにょ)ほかにあらず、身を捨てていずこ何に求めん?
 迷(めい)・悟(ご)・・我にあれば発心すればたちまち即に到る。」

と書いています。

「仏の教えは何処にあるというのではない。
 あなたの心の中にあるのだ。

 真実の状態を求めて、あなたは何処に行こうとしているの?
 迷いも、悟りもあなたの心の中にあるのだから、
 あなたの社会的価値観(煩悩)を発見し、
 宗教的価値観にパラダイムシフトすれば直ぐに悟れるよ。」

と述べているのです。

あなたの心が平和になることで、世界は平和になるのです。

そのためにあなたの心にかかっている、社会的価値観(煩悩)を発見しなければなりません。

そのフィルター(眼鏡)で世界を見つめているからです。

そして発見した眼鏡(フィルター)のレンズを磨いてやれば、
真実がありありと観えて来るのです。