わたしたちは心に浮かぶビジョンを通してものを考えている。
しかしビジョンを言語化するとその言語に縛られてしまう。
デカルトは「我思う・・・ゆえに我あり」と考えた。
しかしI think ・・・・。という構文(主語+述語)を刷り込まれた彼には、
主語を省略するという東洋の思想は持っていない。
主語である我はあるのか・・・ないのか・・・それが問題だと仏教では考える。
自他を分けてしまう考えが、同じ人類であるわたしたちを・・多国籍の人々と分けてしまう。
国籍の違いが、肌の色の違いが、言語の違いが戦争を生み出す。
このような考えを仏教では分別智(二元論)と呼んで否定している。
水を喩えに考えてみると分かりやすい。
このコップの水を飲むと・・・水は私になる。
私の体重の70パーセントは水だから、わたしは四捨五入すると水かもしれない。
しかし小便をすると、それは自分の一部ではないように思える。
流した水は・・・海に流れ・・・蒸発して雲になる。
雲は雨として地上に降り・・山の保水力を通して時間をかけて川になり、水道局に取り込まれる。
そして水道の蛇口からコップの水になる。
だから水を汚すことはわたしを汚すことになる。
小さなわたしは肉体の私。
だけど大きなわたしは循環している私。
Natureというコトバが西欧社会からやってきたときに、
明治の人が自然(しぜん)と翻訳した。
それまで自然は自然(じねん)と呼ばれていた。
そのときの社会は「天・人・地」一体の社会だった。
農地に雨が降らないのはその地に住む人々の行いが悪いと考え、祈りの儀式を行った。
神と人とが一体だったのだ。人々は大自然の敬いながらも、怒れる神として恐れていた。
しかし西洋の考えは、自然を「人+自然」と分けてしまった。
二元論だ。
自然を開発することが善になってしまったのだ。
自然環境の破壊はこのときから始まった。
自と言うコトバは、目の前の鼻を指すコトバ(象形文字)だ。
「自分とは何?」と聞かれると、人は目の前の鼻を指差す。
自と言うコトバには「みずから=自力」と「おのずから=他力」の意味がある。
「みずから」とは動作の主体が自分にあることを示す。
ところが「おのずから」とは動作の主体が自分にないことを示す。
同じ一つのコトバがまったく正反対のことを言っているのだ。