罪、咎、憂いも・・創造主(如来)からやってくる!!
キリスト教の罪・咎(とが)に対する考え方

 

賛美歌312番(星の界)

いつくしみ深き〜   友なるイエスは♪♪

罪・とが・憂いを〜  取り去りたもう♪♪

心の悩みを〜     つつまず述べて♪♪

などかは知らねど〜  心やすらぐ♪♪ 

アーメン



ある人のお葬式に、この歌が流されました。
初めてのキリスト教の葬式でしたので、驚きました。

神父さんが、「Nさんは、神に召されました。」と言うのです?!

「え〜!召されたって?死ぬんじゃないの?」

「呼ばれるの?」

ここから私のキリスト教探求が始まりました。



キリスト教(ローマ・カトリック)は《「人類の罪・咎」をイエスが贖って(あがなって=代表して罪滅ぼしをして)
受け止めたから、イエスを信じれば心が安らぐ。》という救いの教えです。

            


仏教の罪・咎に対する考え方



ところが仏教では、罪・咎などないと考えます。
自力によって生きているのではなく、ご縁(因縁生起)によって生かされているのです。

そのご縁の元が、業(カルマ)であると考えます。

カルマとは特定の思考傾向です。
プログラムといっても良いでしょう。

このプログラムを書き替えるために、修行(リ・プログラミング)を必要とするのです。


でも、修行はお寺だけでするものではありません。
人生そのものが最高の修行なのです。

低次元のプログラムは、創造主があなたに間違いを犯させる
(あなたに罪・咎を犯したという感情を起こさせる)と考えます。

しかし、高次元のプログラムは
『創造主に間違いはないのだから、間違いを起したと思う出来事でさえ、創造主からのメッセージである。』
と考えます。

間違いを犯したという感情をステップボードにして、思考の転換(パラダイムシフト)を計り、
高次元のプログラムに参入するのです。

そうなると、自力によって生きているのではなく、他力で生かされていると知ることができるのです。

浄土真宗の親鸞はこれを「絶対他力」と呼んでいます。

だから「起した出来事(罪・とが)はすべて創造主(如来)からのメッセージ」なのです。


真言宗ではこれをサンスクリット語で
「オン・サルバ・タターガタ・ハンナ・マンナノウ・キャロミ=一切の如来に帰依します。
=創造主に間違いはないのだから」といいます。



《絶対肯定=すべてはうまく行っている=不空成就・如来》

私たちは、自力で生きているのではなく、後の力により、生かされているのです。

《オーム(アーメンと同じ語源)》

ゴスペル歌手でカリスマ・ボイストレーナーの亀淵友香さんは、
「考えて・・考えて・・・考え続けると・・祈りになる。」といっています。

        



詩人・金子みすヾの考え方



「みんなを好きに」


わたしは好きになりたいな

何でもかんでも みいんな。

ねぎも、トマトも、お魚も、

のこらず好きになりたいな

うちのおかずは、みいんな。

かあさまがお作りになったもの。


わたしは好きになりたいな

だれでもかれでも、みいんな。

お医者さんでも、カラスでも、

のこらず好きになりたいな。

世界のものは、みいんな、

神さまがお作りになったもの。


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好き嫌いとジャッジしているわたしは低次元のわたしです。

「みすヾ」のように「罪・とが・憂い」さえも・・「みんなを好きに」なりたいものです。