世間の価値観を否定する「得度」


世間の価値観

最近、次々と三人の友人が高野山で得度をすることになりました。

得度って何なのでしょう?
広辞苑では @生死の苦海を渡り、涅槃の彼岸に渡ること。
      A仏門に入ること。出家。 となっています。

仏教の歴史では、王子であった釈迦が東西南北の門から始めて外へ出て、
村の人々の生・老・病・死を見つめることによって気づきを得る出来事がありました。
このままでは「一切行苦=一切の行いは苦しい」と感じた彼は、
妻と子と王子としての立場を捨てて、修行の道に進みました。
世間の価値観から見たら、とんでもない行動ですね?
 
私たちは子供の頃から世間の価値観を刷り込まれて成長してきます。
そうすると、世間の価値観以外の価値観があることは見えなくなります。
日本は多民族国家では無いので、余計それが気づきにくいのです。

イスラム諸国やインド人や東南アジアの人々は大変宗教的な人生観を持っています。
これらの宗教による人生観の枠が、人々を平安な心に導いてくれているのです。

ある友人は「小林さん、私、お経知らないけど・・・こんな人が得度をしても大丈夫なの?」と聞かれました。
「いや〜、あなたは国際的で、日本で世間の価値観に縛られている人が見えているから、
 得度をする資格があるんだよ。」とお答えしました。

インドやネパールでは世間の価値観を離れた(出世間)人々を、サドゥー(行者)と呼び、
彼らがサンダルと腰布姿で杖を突き店の前に立つと、喜捨(施し)のお金や食べ物を渡します。
世間の価値観と違う修行者は、経済に煩わされることは無いのです。
彼らは乞食ではなく修行者ですから、胸を張って生きています。

インド旅行をすると会うこのような人々に、私はいつも驚かされるのです。
そして釈迦も、このような人の一人であったに違いありません。


インドの四住期

インドには四住期という考え方があります。

子供の時は学住期で、一生懸命勉強します。

大人になると家住期で、結婚し家に住んでお金を稼ぎ、子供を育てます。

老年になると林住期です。
後を息子に任せ、家の近くの林を散策し哲学三昧やボランティアです。

そして最後に遊行期となります。
出家してインド中を巡り、最後にガンジス川のほとりで死を迎えるのです。

日本人の生き方はどうなのでしょう?
東京では老人といえば、巣鴨のお地蔵さんにテレビの取材班は向かいます。
インタビューアー:「元気ですか、おばあちゃん?」
「いや〜、あんた、元気にやっていることが一番。
 あとはポックリ行ってくれるようお願いして来たんだよ。」と答えます。

日本には、学住期と家住期はありますが、それ以降が無いのです。
一生懸命働いて、後はポックリ行く(彼岸に!!)だけなんだそうです・・・・・!!


儀式をしない得度

得度の厳粛な儀式なしにも、精神的に世間の価値観を離れ得度することが出来ます。

釈迦は、美しいものと豊富な食事に囲まれていたために、
お城の外の景色に生・老・病・死があるなんて知りませんでした。
父親が「占い師の言葉を信じ」大きくなるまで、世間を見せようとしなかったのです。

だからこそ、豊かな生活をしているのに、家を捨てるほどのショックがあったのでしょう。
私たちも、病気や失恋や解雇により社会の価値観からはみ出します。

そのような挫折が、最初の得度(出世間)になるのです。
そこから「何か変だな?」という思考が始まるのです。


やくざと密教修行者の差

世間の価値観を笑っているのは、やくざも同じです。
ここ10年来の不況は、やくざリセッションともいわれています。
裏側で何かが動いているのでしょう。

人はシステムを作るとそのシステムに安住してしまいます。
システムが絶対となり、システム自身を疑おうともしなくなります。
それを観るためには外へ出る必要があるのです。
経済活動システムの外部に出ることにより、見えてくるものもあるのです。

やくざはシステムの寄生虫です。
革命家はシステムの破壊者です。
密教修行者は、新しい時代の創造者となろうと志している人々のことをいうのです。

そのために複眼的思考法、複雑系の思考法が必要になるのです。

出世間をしてから世間の価値観に戻ってくる。
この精神的過程は、メーテルリンクの「青い鳥」にも似ています。
チルチル・ミチルは森という不可思議な人生の体験を通して、
幸せの青い鳥が、自分の心の鳥かごの中にいることを発見するのです。

禅宗の言葉では「覚り終わって、山はまた山。川はまた川。」となるのです。
このときに世間の価値観を否定していた自分を超えて、
「すべてはうまくいっている」ことに気づくのです。