チベット密教の秘密・1
チベットの仏画・仏像

チベットの空海:パドマ・サンバヴァ


15年前より、チベットに行き続けています。

そして多くの仏画や仏像を手に入れました。
日本の人にとって、チベットの仏画・仏像は驚きのものに違いないでしょう。

外国人で最初にチベットに行った僧、河口慧海にとってもそうでした。

特に合体しているヤブユム像は理解できないことだろう!!
パドマ・サンバヴァを仏教を堕落させた、悪魔の申し子と呼んでいるくらいだから。

しかし、この仏画や仏像から出ているエネルギーは半端じゃない。

善悪二元論で、「性は悪」などと切ってしまう人には、このエネルギーは理解できないでしょう。

密教をインドからチベットにもたらしたのは、このパドマ・サンバヴァ(蓮華生)です。
日本の空海のように、尊敬されているスーパースターなのです。

ブータンの崖の上にあるタクシン僧院に、虎に乗って飛行していったとの言い伝えがあります。

あるとき彼は、あちらの世界に消えたという。
そのときに眩い輝きと共に額と胸のチャクラから、虹の光が射し、
身体の周囲を覆ったという。

いまでもこの「虹の身体」を求めて、チベット僧は修行を続けています。



彼の真言は「オマホ・ベンザ・グル・ペマ・シッダ・フン」になる。

曼荼羅の中央上:四臂観音(ダライ・ラマ=慈悲)、

右:持金剛(チベットの不動明王=方便)、

左:文殊菩薩(智慧)のシンボルになる。

右下には観音様を助ける白多羅菩薩(ホワイト・ターラー)、
左には緑多羅菩薩(グリーン・ターラー)が座す。

仏像のパドマ・サンバヴァの右手には金剛杵が握られ、左手には不老長寿の壷が握られています。
肩には三叉戟が架けられています。

                     

「五学の偈文・・五分法身を磨ようすと思え、戒・定・慧・解脱・解脱知見なりと・・・・・

 戒(持金剛)、定(観音菩薩)、慧(文殊菩薩)、解脱(白・多羅菩薩)、解脱・知見(緑・多羅菩薩)・・・の象徴で、

 中央に金剛薩タでもあるパドマ・サンバヴァが座している。


真言密教ではこれを「六大喩伽(ろくだいゆが)」といいます。

チベット・ブータンでは彼は「グル・リンポチェ」と呼び親しまれています。


覚りの智慧を得る:仏頂尊勝母=ウシュニシャビジャヤ


仏頂尊勝陀羅尼・・・仏頂は覚りの智慧の象徴です。

お釈迦様が、覚りを開いたら、頭頂にふくらみができてきたそうです。

そのふくらみが仏頂面(変な顔?)の仏頂です。
仏頂とは、覚りの後に現れる頭頂のふくらみのことを指します。

この尊はチベットでは女性として表現されています。
仏頂尊勝母なのです。

ノウボウ・バガバテイ・タレイロキャ・ハラチビシシュダヤ・ボダヤ・バガバティ・
タニャタ・オン・ビシュダヤ・ビシュダヤ・アサンマ・サンマ・サンマンダ・・・・・・

などと続く、仏頂尊勝陀羅尼は、さまざまな業を祓うと言われていました。

ウシュニシャビジャヤというのがサンスクリット語名です。

真言宗では「ノウボウ・バガバト・ウシュニシャ・オンロロソボロ・ジンバラチシュタ・
シッタロシャニ・サラバ・ラタサダニエイ・ソワカ云々」という仏頂尊勝真言があります。

この真言を眼の周辺のチャクラに五回流し込むことによって、第三の眼が開くとされています。

ほんと・・・でしょうかね?


覚りの智慧を得る:文殊菩薩=マンジュシュリー



文殊の利剣は諸戯を断つ、覚母の梵文はじょうごの師なり。

チク(般若仏母)・マン文殊菩薩)・の真言を種子とす。諸経を含蔵せる陀羅尼なり・・・・

で始まる「般若心経秘鍵」は般若心経の秘密を解き明かす、空海が書いたバイブルです。

文殊菩薩は、右手に剣、左手に経本を持っています。

剣は行為によって得たグノーシス。

経本は過去からの叡智。

これが智慧と行為(方便)の統合になります。


あなたの辛かった体験が、人類の智慧として役立つという教えです。


般若仏母=プラジュナーパラミタ

般若仏母は、般若心経の教えを体現しています。



右手には蔓を持った右手の先には蓮の花が開いています。

左手には経本を持っています。



慈悲と智慧の象徴です。

この図像が、般若心経全体を現しているのです。

観ることによって一瞬して、覚りを開くといわれています。

ダライ・ラマ14世の無分別智
          

18年前、ダライ・ラマ14世の「宇宙のダルマ」という本を読みました。

そこで、仏教は「無分別智」というコトバが書いてありました。
ここから私の密教探求は始まりました。

無分別智の反対語は分別智です。
分別智は「DUALISM」と書かれています。

DUALとは二元論のことなのです。
善悪二元論を離れることとは、ジャッジを外せということです。

誰かのコトバで、判断している私。
その価値観を外すことで、永遠の自由を獲得できるのです。

起こる出来事は、自分が起しているのではなく・・他者との関わりの中で起こります。
これが縁起(因縁生起)なのです。

自力であると思っている行為が、他力であると気づけると、力みが抜けます。

「自然=じねん」「おかげさまで。」など他力のコトバが数多くあるのが日本語なのです。

「行為の主体を放棄する。」ことにより、生かされている私になるのです。


私をここまで導いた、多くの関わりに感謝します。