チベットの死者の書
曼荼羅に描かれた神々の来迎

チベットに古くからあるボン教は日本の神道と近い世界観を持ち、
精霊崇拝、呪術的な要素を内包し、輪廻転生する生命を信じていました。

仏教的な世界観が八世紀頃チベットに流入すると、
両者は習合し「チベット死者の書」を誕生させました。

それによると、死者は49日間バルドゥと呼ばれる、生の中間的な状態に留まりますが、
その間に死者は、死の瞬間に眩しく輝く光(クリヤー・ライト)を体験します。

最初の一週間で死者は平和の様相(寂静尊)の神々の、
次の一週間で怒り狂った神々(憤怒尊)の来迎や襲撃を受け、
ついには閻魔大王の前に引き出され、人によっては灼熱地獄に投げ込まれたりします。

そして死者はそれぞれのカルマに従い、六つの世界のいずれかに再誕生していくのです。

                

クリアーライトの体験

チベット死者の所が明らかにする死の瞬間に眩しく輝く光(クリアーライト)は、
(私も含めた)臨死体験者の多くが体験する光にも共通します。
深い瞑想体験でも、光に溶けて永遠の時空間を体験することがあります。

また日本仏教においては、死者を迎える阿弥陀如来は、眩しく輝く無量の光の象徴であり、
『大乗起信論』ではこれを自性清浄心と呼んでいます。

現代科学では、この宇宙はやがてブラックホールに吸い込まれながら、
眩しく輝く光のホワイトホールから現われ出てくるといわれ、
また光の速度で飛翔すると、そのうちに時空のすべてが包み込まれてしまって、
超越的な永遠の只中に投げ込まれるといっています。

交合した神々の姿

チベット死者の書の曼荼羅に現われる神々は、男女の交合した姿で描かれています。

これはしばしば歓喜仏(ヤブユム)と呼ばれていますが、
この神々の合体の姿の中に、究極的な境地の至福の状態である『大楽』が
保持されているからだといわれます。

父なる普賢は男性性、方便の象徴であり、
母なる普賢は、女性性、空の智慧(般若)の象徴なのです。
この両者の融合から、完全な法身の状態、つまり悟りが得られるのです。

この考え方は、私達の生命現象そのものの他に宇宙真理があるのではないという考え方と結びついて、
性的な結合状態の中に、悟りの姿を見るようになっていきました。

日本の理趣経の中にもその顕著な影響が見られ、これこそが密教の最も密教的な部分なのです。

                   

死後の世界はどこに存在するか

チベット死者の書は繰り返して、神仏は私達の心臓や脳のセンターの投影であり、
彼らは私達の意識の中に存在するのだと強調しつづけます。
死後の世界の存在もこの視点から見られなければなりません。

この私達の堅固な存在感を持っているように思われている世界もまた、意識の投影です。
ただそこに「永遠不滅の絶対のようなものは存在しない」ということです。

真に存在しているものは、世界を映し出している〈意識〉であり、
意識の包まれる〈真如・本性として光り輝く心〉だということです。

そして「死者の書」のいうバルドゥでの解脱とは、光を見ることでなく、
光と一つになること、光に溶け入ること、
死者の意識が〈本性として光り輝く自覚〉それ自身となることです。

人はなぜ生まれ変わろうとするか

それは心が本来的に、形象化したい、固体化したい、物質化したいという性向を
内在しているからだと思われます。
宇宙そのものが現象化したいという、アーラヤ識的欲望によって作り出されてきているわけです。

私という〈個〉を解体して、〈光〉へと溶け入っていく恍惚的なタナトス(死の衝動)よりも、
再び形象化し物質化していきたいという、エロス的衝動のほうが、はるかに強いのだと思われます。

生と死の絶妙なバランスの全体性、そこの生の妙味があるのではないでしょうか。
生は死によって、照らし出されてくるのです。

死によって照らし出された生。
それがいま問題となっているわけです。
私たちの生そのものが、幾たびもの死を経てきた生なのです。

いま私たちに問われているのは、解脱でも輪廻でもなく、
死を内包した生をもう一度見つめ直すことです。

私たちはもうすでに生まれ変わっているのです。幾億回も。