”それ”は在る

ある御方と探究者の対話




何度も何度も、よくよく考えてみるといい。

貴方の心の中にあるすべて、それが世界だ。

あなたがいなければ、世界は無いのである。

ゆえに、救世主とは誰か?

〈私〉である。


私がですか?
私がこの世界を救うのですか?

そうだよ、あなたが神の独り子である救い主なのだ。

そして誰もがそうなのだ。
誰もが神の最愛の独り子なのだ。

なぜなら私は独りしか存在しないからだ。

いいかね、世界の中にあなたが存在しているのではない。
あなたの中に、世界が存在しているのである。




探求者は尋ねた。「師よ、人生とはなんですか?」
ある御方は答えた。
「人生とは〈私〉とは何か、と知ることである。その知る作業が人生である。それ以外にない。」

だが世界に存在するようぬ見えるすべての人がそうだ、とは言えない。
そしてまた同時に、すべての人がそのためだけに存在している、と言わなければならない。

なぜなら、すべては一つだから。


この老人があなたを〈私〉と呼ぶとき、一切すべての人の〈私〉を表している。
世界には唯一の〈私〉しか存在していない。

故に〈私〉よ、〈私〉が悟れば・・・ここでは悟りというコトバを使うが・・・すべての人が悟るのだ。

そのとき、〈私〉は存在しないし、〈あなた〉もまた存在しないことが理解される。
〈あなた〉が存在しなければ、〈私〉という必要もないのだから。


また、〈悟り〉さえ存在しないことも明確に理解される。
悟る人など存在さえしていなかったのだと。


だがこの認識は、この認識が起きるまでは、決して理解されないだろう。

いくら頭で考えても、真の理解は得られない。

この聖なる自己認識を、人は悟り、覚醒、目覚めと呼んでいるのである。

つまり、それがそれ自身を知ること。
これが聖なる自己認識だ。          
                                  ”それ”は在る (ヘルメス・J・シャンブ著) P22

     
       


真言密教には、「自他不二」という言葉がある。
同じ理解を、ヘルメス・J・シャンブ師がこの本で解説している。

私は密教の師、山崎泰広先生に、得度記念に扇子をいただいた。

そこには「如実・知・自心(にょじつ・ち・じしん)」と書かれていた。


自らの心の深さを探求すること、これが本当の人生だ。

だから、千回尋ねることのできる「千尋:ちひろ」という名前を聞いた湯婆は「おや、ゼイタクな名前だね~。」といって、
智慧の始まりである「尋ねる」を奪って支配した。

だから、それからのチヒロは真の名前を奪われ「千:せん」と呼ばれるようになってしまった。

では、あなたの「真の名前」はなんだったのだろう?

                 







あなたは人の子か、神の子か?

いま、この瞬間、選ぶことができる。

だがそれは、この時点で、あなたは自由だ、という意味ではない。
あなたは、どちらかを選ぶしかない。

つまりあなたは束縛されているのだ。
しかも完全に!

神の子を選んだ時にだけ、
あなたは本当の自由を手にすることができる。







思考が現実を創っている!

その思考は、誰かが言ったこと!

新しいプログラムは、前のプログラムを疑うことから始まる。

何か変だな?

どうしてなんだろう?

この叡知が、あなたを不思議の国に導くのだ!



那須道場の足下に、芦野温泉がある。
東京から来た真言宗の僧に水を分けたら、温泉が湧き出たという!

この辺鄙な温泉は、若返りの湯として東京方面の湯治客で満員だ。

不思議なこともあるものだ!