密教的思考法序説
K先生との対話(2)
私の文章に対する11月1日のご意見ありがとうございます。
それぞれの問題点についてお答えしたいと思っています。 
2004.11.4
(1)まずは「動物と人間が平等であるなんて?」とのご質問から。

ヒューマニズムとは、神が動物の上に人間を造ったという考え方ではないでしょうか?
ここには人間に対する「おごり」が存在していると思えます。

「生きとし生けるもの」の思想は輪廻転生の思想と一体になっています。

チベット・ネパールでは犬は放し飼いにしています。
前世が犬で、次には人間として生まれるという思想があるのです。
やっと人間として生まれたのだから、今世において仏道を修行しようと思うのです。

現在の地球の歴史を、世界を見て、宇宙船地球号の乗組員として、
人類は船長になる資格があるとお思いになれるのでしょうか?

だいぶ前に上映された映画、チャールトン・へストン主演の「猿の惑星」は
人類が自らの文明を破壊した地球を舞台にしています。
そこでは猿が地球を支配し、人間は話す能力を失っているのです。

動物は満腹になれば殺戮は終了します。

人間は、人間同士の殺戮をいつになったら止められるのでしょうか?

ダッチンカーリー寺院の儀式


システムを作ってしまうと人はその立場に安住するもののようです。
ヒューマニズムという思想システムもそうです。
動物を支配して良いという思想が、牛の遺伝子操作やホルモン注射による促成養育にまで進んでいます。

ネパールの首都カトマンドゥの南にダッチンカーリー寺院があります。
ここでは毎週火曜日、土曜日に生贄の儀式があります。
血を好むカーリー女神に血を捧げるとして、羊や鶏が生贄となります。

       

見学に行った私は、屠殺の後に皮をはがれて肉を持ち帰る姿を見て
「冷蔵庫がないから、ここで殺しているんだ〜」と思いました。

しかし、よくよく帰路の車の中で考えました。
「もしかするとこれは大変な叡智なのではないだろうか?」

以前、我が家の息子たちに、「食事のとき『いただきます!!』って
何をいただいているか知ってるかい?」と聞きました。
答えられませんでした。

「命をいただいているのです。動物たちの命を!!」

いまの日本では、肉とはパックに入ったスーパーの肉としてしかイメージできない社会になっています。
牛が、羊が、鶏が、どんな苦悶の表情をして死んでいくのか、見たことのある人は少ないでしょう。
でもそれが現実です。

人間の生のためには多くの動物や植物の死があるのです。

生とは残酷なものなのです。

近代化とは言語概念の世界を作ることです。
無意識の嫌がる現実を我々は見まいとします。

屠殺という言葉をどんなに並べても、現場を見ることとは別のものです。
そのことがわかった上で「人間は動物の命をいただく価値のある生命体である。」
との自覚が生まれるのではないでしょうか。

法隆寺の玉虫厨子の裏側に「捨身餌虎(しゃしんしこ)」の釈迦の前世が描かれています。
飢えた母親虎からは、乳が出ません。
気持ちのやさしい王子は子供の虎が泣いている姿を見て、餌として崖の上から身を投げるのです。

この「捨身餌虎」の場所はネパール・ナガルコットの付近・ナモブッダの遺跡なのです。
もちろんこの例は極端な例です。

でも人の思いやりは、それほど深いものかもしれません。
そうありたいという姿が、物語として残っているのかもしれません。

      

死も同じように、無意識が嫌がる光景です。
パシュパティナート寺院では毎日遺体を焼く煙が絶えません。

「死を思え!!」
ラテン語で「メメント・モリ」こそ思索を開始する、哲学の始まりの言葉です。

いつかは死んでしまう私、死を思うことで生きている意味を探るのです。

仏教では「生を明らめ、死を明らめるは、仏事一生の大事なり」と言っています。

(2)次に医学否定、開発否定の疑問にお答えしましょう。


もちろん私の趣旨は、医学否定ではありません。
西洋医学が閉鎖空間の山奥では機能しにくいと述べたつもりです。
化学薬品の薬は高価で買えないのです。

その現状に気づいた畑美奈江さんは、ネパールで鍼灸・あんま治療を普及させる努力を始めました。
今はネパール製もぐさの製作も始めました。
地域には地域に合った治療法があるのではないでしょうか。

医学=近代西洋医学という常識はなぜ生まれたのでしょう?

近代医学は解剖学から始まり、顕微鏡の改良を通じて細胞学、細菌説から
数々の病原菌と抗体の発見を通じて発展してきました。

非科学的な哲学思想では精神と物質は混在していました。

デカルトは物質と精神を分離する二元論を考え、物質一般と区別させられるような生物など存在しない
という、動物機械論を考えました。

近代医学が「身体とは物質の構造である」という考えに嵌っていったのもこの思想のためです。

デカルトの精神と物質の二元論はひとつの哲学(思考の枠)に過ぎず、
東洋医学よりも進歩したものとは限りません。

私たち人間は思考(哲学)に縛られるため、近代西洋医学の思考法では目に見えないものは扱えないのです。

身体とは物質の寄せ集めではなく、全体的に調和した生命体です。

ホリスティックな存在です。

中国・インド医学では身体の全体を流れる「氣」「プラーナ」、
流れる道の「経絡」「ナーディ」の存在なしに語れません。

しかしこれらの存在は鍼灸の実践を通して体験的には確かめられても、
物質として抽出することは出来ないのです。


開発否定は大変難しい問題です。

途上国が電力開発を始めることは電気産業の輸出には最高の条件が整うことになります。
道路の整備は自動車の普及につながります。

しかしこのようにして生活が整備されるにつれ、エネルギー消費量も増大するのです。

風力や水力のエネルギーが中心ではない現在、石油や原子力エネルギーの高騰にもつながるのです。
途上国が開発主体の経済を始めたら、地球環境はどのように破壊尽されるのでしょうか?

ポカラや、カトマンドゥに日本語学校を寄付しているT先生は
「米百俵物語」を喩えに出して教育の重要性をお話しします。
「魚を与えるよりも、魚の釣り方を教えよう!!」とおっしゃいます。

でも私には、日本が、近代国家が一本釣りをしているのではなく、
投網を掛けたり、ダイナマイト爆破で浮かぶ魚を取っているように思えるのです。
地球環境に対して、やさしい開発ではないように思えるのです。

開発の問題は、もと国連職員のスーザン・ジョージさんの「債務ブーメラン・第三世界は地球を脅かす」や
「なぜ世界の半分が飢えるのか」などをお読みください。

WTOは世界銀行と組んで開発を地球規模で行っていますが、成功した試しはありません。

(3)そこで「貨幣経済を否定した文明が可能か?」
という先生の質問が出てくるのです。


私たちは長い間、いままでの貨幣経済システムの中で生活してきました。
でもその貨幣経済システムが人に幸せをもたらさないと気が付き始めています。

「モモ」や「ネバーエンディング・ストーリー」の作者・ミヒャエル・エンデは
以下のようなメッセージを私たちに残しています。

「現状では、選択肢はエコノミーの破局かエコロジーの破局か、
この二者択一しかないということです。
このシステムの病気の核は・・・・・この私たちの金融システムなのです。」

人類にはどのような未来が待ち構えているのでしょう?
いままでの貨幣経済システムは貧富の格差をより一層鮮明にし、途上国の経済を破綻に導いています。

株式投資に使われる巨万のお金と、パンを買うお金の価値が同じなんて?
おかしいと思いませんか?

大量生産・大量消費の経済は、大量のエネルギーを消費しながら環境を破壊し続けています。
この文明は消費する資源が枯渇すれば滅びるのです。
このような貨幣経済システムの変更こそ、いま望まれていることなのです。

今、まさに世界で地域通貨という形で繰り広げられている運動は、
小さいながらもこのような方向を目指しているのです。

現在のパラダイムは不動のように思えます。
だからこそパラダイムなのです。
エコノミーの破局かエコロジーの破局か、いまこそ、決断を迫られているのです。

詳しくはウェッブサイト上で「地域通貨」を検索してご覧下さい。
多くの示唆にとんだ貨幣の働きが学べます。

(4)科学的思考法という枠(フレーム)

ソニーの井深大さんは社員に「デカルトを超えよ!!」と指示していました。

デカルトの精神と物質の二元論は、西欧近代の分析智の思想的ベースになっています。
しかしそのような認識方法で現象を見ると、そのような現象しか見えなくなるのです。

菌類学者・南方熊楠は100年以上も前、西欧の科学を
「あらかたの現象を現象団と分類しただけで、なぜ(Why)その現象が起こるのかは解答していない。」
と述べています。

つまりニュートンは「質問:なぜ(How)林檎が落ちるのか?解答:万有引力があるので、
木から林檎が落ちるのに何秒かかる。」とは答えたが、
なぜ(Why)万有引力があるのかは答えていない。

「Howには答えたが、Whyには答えていない。」というのです。

「なぜ地球は絶妙のバランスを持ってこの世に存在し、なぜその上に人類が存在しているのか?」

彼はこの疑問を、大日如来の大不思議と称しています。
キリスト教では神の御業と呼ぶのではないでしょうか?

       


金子みすずの詩は多くの事を気づかせてくれます。


 不思議

わたしは不思議でたまらない
黒い雲から降る雨が
銀に光っていることが

わたしは不思議でたまらない
青い桑の葉食べている
蚕が白くなることが

わたしは不思議でたまらない
たれもいじらぬ夕顔が
一人でパラリと開くのが

わたしは不思議でたまらない
たれに聞いても笑ってて
あたりまえだと言うことが


私たち大人は、子供の質問を止めるために、「当たり前だ」とか「常識だよ」との言葉を言います。

しかしそれは「考えるのを止めなさい。」と同意語です。
子供たちの好奇心に蓋をするのは大人たちです。

このような現象を見て科学者ならば、植物学者ならば解答を出すでしょう。
そして神父様ならば、神の御業とおっしゃるかもしれません。

ひとつのパラダイム(その当時の社会の認識の枠)の中に入ると、
そのパラダイムを信じてしまいがちです。

しかし信仰は思考の停止につながります。

戦前にもパラダイムがありました。
戦後の日本はイザヤ・ペンダサン(山本七平)が「日本人は『水と安全はただ』と思っている。」
と述べていましたが、いまや水道の水を飲む人は少なくなったのではないでしょうか?

今の時代は、古い価値観が揺らぎ、パラダイムシフトが起こっているのです。

(5)心にかかっている、当たり前を外すことが 覚り=智慧



組織とは


沖縄のマブニ丘で姫百合の塔を見ながら、大海原を眺めていたことがあります。

このとき日本軍の本隊は、艦砲射撃の届かない島の内部に引きこもり、女性中心の部隊が前線に配置されました。
戦術としては正解だと思います。

しかし日本人を守るために成立した軍隊が、するべきことなのでしょうか。

この状況を見た時から「人間の組織は機能体として成立し、共同体化(自分たちのための組織化)する」
と信じるようになりました。

軍隊に限らず、国民のためとして出来上がった官僚組織も、官僚のための組織になっているのです。

アメリカ原住民

アメリカでネイティブ・アメリカン(インディアン)の人と会ったことがあります。
この時にも大きな過ちに気づきました。

私は英語の受身形を覚えるのに
「Colombus discovered America. America was discovered by Colombus」と丸暗記していました。

アメリカに行って、気づきました。

発見されたのじゃない。
最初から彼らはここに居たんじゃないか!!

私たちは西洋の歴史観を刷り込まれていたのです。

「頭の皮を剥ぐ残酷なインディアン」というイメージは西部劇によって刷り込まれていたのです。


歴史観


私たち日本人は、当初は中国文明、明治初期には西洋文明の影響を受け、歴史を形造って来ました。
そして戦後はアメリカから、多くのことを学びました。

このような歴史を通して、正しいことや素晴らしいことは外国にある
という思考傾向を無意識に埋め込まれてしまっています。
どうやら自虐的歴史観に刷り込まれているようなのです。

ネパール・ツアーを企画した時、参加のお客様が
「ネパールでは100年経っても、日本のように(経済的に豊かに)はなれないね。」と発言されました。

それを聞いていたガイドのPさんは「そんなことありませんよ。50年ぐらいで何とかなりますよ」と返事を返しました。

自分の国を卑下された時、あなたならどう言い訳をするのでしょうか?
彼のような解答を出すプライドが、今の日本人に残っているのでしょうか?

もちろん私も50年でネパールが日本のようになるとは思いません。
それどころか、日本が精神的に落ちこぼれて、ネパール以下になってしまうことの方が心配です。

2000年12月のニューズウィーク日本版の表紙には、アメリカ国旗が翻り
51番目の州として日本の国旗が描かれ、属国日本との黒文字のタイトルが書かれていました。

この雑誌に誰も反発をしない国民に教育されているのです。

情報は重ねることによって、事実のように思えてしまいます。
マスコミや政府の発表には、注意深い認識で対応したいものです。