密教的思考法序説
前文


2004年11月からしばらくの間、ネパールボランティアに活躍される
クリスチャンの元教師の先生とメールによる対話をかわしました。
この経験は人の思考法というものを学ぶ貴重な体験になっています。
私の考えている密教的思考法を身近に感じていただければと思い、
ここに公開することにいたしました。


『若干の違いはあるが、宗教性の強い人はおおむね権威主義的人格の持ち主だと考えていい。
 (中略・・)信仰という行為そのものがそもそも権威主義的である。
 特定の教義をまず受け入れ、それを善悪判断の基準にし、自分の生活を律するという行為が
(倫理基準が無いよりも遥かによいが)権威主義的行為である。

 宗教性の強い人の中には、自分の直面する社会的権威が、非倫理性を持っていたとして
 それに組することをよしとせぬために、その補償として宗教的権威に内応している人がいる。
 戦時国家の徴兵忌避のような場合である。

 自分が必ずしも常に社会的権威を支持できないという状況に心理的に対応するためには、
 社会的規範よりも上位の内面規範としての宗教が必要になる。   

                 権威主義の正体・(岡本浩一著・PHP新書)P200』
 
このような文章を読むと、1940年7月18日リトアニアの領事代理、杉原千畝が6000人のビザを、
外務省の否定にもかかわらず、夜も寝ないで手書きで発給していた事実を思い起こします。
その彼は終戦後、帰国して1948年、この行為の責任をとって解職になるのです。
外務省の人々が、外務省という組織の価値観(権威)にたいして
盲目になっていたことが分かりますね。
 
密教的思考法とは、子供の頃から掛けられていた親の権威(価値観)や、
学校の権威(価値観)、社会の権威(価値観)を疑うことから始まります。
その檻はあなたの心にかかっているのです。

こうしなければいけないと思っている行為を、
「なぜ?」という叡智の剣で切り開いてみましょう。
それが自己の解体につながるのです。

その後に自らが考える、「サイの角のようにただ一人歩め」と釈迦が残した言葉のように、
自灯明・法灯明・・・・自らをよりどころに、現象をよりどころしながら
人生を歩んでいきましょう。