神話の力
〜〜「神話の力」ジョーゼフ・キャンベル&ビル・モイヤーズ(早川書房)より抜粋

ジョーゼフ・キャンベルが行きつけのレストランで食事をしているとき、
隣のテーブルで12歳ぐらいの男の子が、両親と食事をしていました。

「トマトジュースを飲みなさい」と父親が男の子に言いました。
「飲みたくない。」と男の子が言いました。

すると父親はもっと大きな声で「トマトジュースを飲みなさい。」と言いました。
そうしたら母親が「いやだと言うことを無理にさせないで。」と言ったんです。

父親はじっと彼女を見て言いました。

「この子は好きなことだけをして、人生を渡るわけにはいかない。
 好きなことだけしていたら死んでしまうぞ。

 俺を見ろ。一生のうち一度だって、好きなことなんかしたことはないんだ。」

自分の好きなことが出来ない人生なんて、どんな値打ちがあるんでしょう?

私はいつも学生に言います。

「君たちの身体と心が欲するところに行きなさい。
 これはと思ったら、そこにとどまって、誰の干渉も許すんじゃない。」

質問:
自分の幸福を追求するとどうなるのでしょう?

答え:
無上の喜びに行き着きます。

中世のイメージに「運命の輪」というタロットがあります。
中心の軸とその周りを回転する縁で出来ています。
周辺にいると頂点から下がるか、上がるかのどちらかです。

でも、もし軸に取り付いたら、あなたは常に同じ位置にいることになります。

それは他者のコトバを抜け出したことにもなるのです。
上に座っている、スフィンクスと同じ位置になるのです。

あなたがあなた自身の中心になること。

あなたの中心は、富でも社会的地位でもないのです。

これが、無上の喜びを得ることであり、至福に生きることなのです。


サット・チット・アーナンダ(存在・意識・至福)

男子の学校で教えていたとき、少年たちが「僕は作家になれるでしょうか?」と聞きに来ました。

私は「君は失意の十年間に耐えられるかな?」と答えます。
「本当にやりたいことがあるなら、やってみたまえ。」と返答しました。

ところがそれから父親がやってくるのです。

「ダメだお前は法律を勉強するのだ、なあ、そのほうが金になるだろう?!」

父親がしがみついているのは、運命の輪の外側です。
中心軸じゃない、至福の追及じゃないんです。

私は1929年にヨーロッパから戻ってきたので、5年間は仕事がなかったけど、
私にとっては素晴らしい時期でした。

ニューヨークのウッドストックに芸術家の卵を育てている老人がいて、
そこで四年間基礎的な研究と読書をすることが出来ました。

でも、私の至福の観念はサンスクリット語から得たのです。

サンスクリットは偉大な精神言語ですが、超越の大海へ飛び込むがけっぷちを示すコトバが三つあります。

それが「サット」「チット」「アーナンダ」です。

私は考えました。

「わたしの考えが正しい意識であるかどうか、自分ではわからない。
 自分の存在だと思っているものが、本当に私の存在であるかどうかわからない。

 しかし私の喜びがどこにあるかは分かっている。
 だったら喜びについていよう。

 そうしたら、それが私の意識と存在をも運んできてくれるだろう。」と、実際そうなったと思います。



質問:はたして我々は真理を悟ることなどできるのでしょうか?

答え:
それぞれの人の深さで、自分自身の「サット」「チット」「アーナンダ」に触れているという一種の確信を抱くことが出来ます。
宗教的な人は、死んで天国に行くまで本当の至福を経験することは出来ないと思います。
しかし私は、生きているうちに出来るだけの幸福を経験すべきだと信じています。

質問:至福はいまここにある。

答え:
天国では、神様にお眼にかかると言う途方もない素晴らしさに夢中になって、
自分の経験なんかしている暇はないでしょう。

天国は経験するところじゃない。

経験する場所は、・・・ここですよ!!

質問:
至福を追及しているとき、何か隠れた手に助けられているように感じたことはありませんか?

答え:
しょっちゅうですよ。じつに不思議ですね?!いつも見えない手に助けられているものだから、
とうとう一つの迷信を抱いてしまいましたよ。

フローに乗ることが出来るようになると、自分の至福の領域にいる人と出会うことになるのです。
その人たちが私のために扉を開いてくれる。

心配せずに自分の至福を追及せよ、そうしたら、思いがけないところで扉が開く・・・
と私は自分に言い聞かせているのです。   
    


グノーシス・キリスト教と仏教

〜〜〜〜〜〜グノーシス・キリスト教

キャンベル:

四十年前エジプトで発見された「トマスの福音書」には、
イエスは「私の口から飲むものは私と同じくなり、私もその人と同じになるであろう。」
と言ったとあります。

これはまさしく仏教的です。

私たちはみなブッダ意識の、あるいはキリスト意識の顕現でありながら、
それを自覚していないだけです。

ブッダとは、目覚めた人という意味です。

私たちはすべてそうしなければならない。
・・・自己の内なるブッダ意識(仏性)・キリスト意識に目覚めなければなりません。

これは通常のキリスト教の思考法から見ればとんでもない冒涜ですが
「トマスによる福音書」のグノーシス・キリスト教では、最も根幹となる教えです。

質問:
死者の霊魂が再び肉体を得てよみがえると言う霊魂再生も、やはり隠喩でしょうか?

キャンベル:
キリスト教において再生に関連する隠喩は「煉獄」です。

現世の事物にたいする執着があまりにも強く、自分の魂が至福のヴィジョンを見ぬまま死んだ場合、
人は煉獄の苦しみを経て、自己の限界性を焼き清めてもらわねばなりません。

その限界性が罪というものです。

要するに罪とは自己の意識をせばめ、それを不適切な状態にしばりつけてしまう制限的要素のことです。


〜〜〜〜〜〜輪廻転生の世界観

東洋の隠喩によれば、もし人がそんな状態のまま死ぬと、その人はまた戻ってきて、
そういう執着から解き放たれるまで、自己を清め、清め、清めるような経験を重ねなければなりません。

再生する個体(モナド)は東洋の神話では主要な英雄たちです。
モナドは一生、また一生と、さまざまな人格を帯びます。

そこで再生と言うのは、いまの人格を持ったあなたや私が再び生まれ変わると言うことではありません。

人格とはモナドが脱ぎ捨てるものです。
そのあとモナドは別の肉体を取る。

男であるか女であるかは、時間領域における執着をきれいに断ち切るために、
どういう経験が必要かにおいて決定されます。

質問:
で、そういう再生の理念は何を暗示しているのでしょうか?

答え:
誰でも自分でそう思いこんでいる〈自分〉以上の存在であるということを暗示しています。
自己存在には、自分についての観念には含まれない次元がある。

自己実現の可能性がある。意識の可能性があるのです。
あなたの生(ライフ)は、今、自分で見ているものよりもさらに深く、はるかに広い。

もしあなたが、その深みを体験できるなら、あらゆる宗教はそのことについて語っているという事実に
突然目覚めるはずです。

チベット仏教ではモナドのことを「意識体」と呼んでいます。

自性清浄とはこの部分の事を指して言っています。
ユングは普遍的・集合無意識と名付けました。

ジョーゼフ・キャンベルは映画スターウォーズの監督ジョージ・ルーカスの大学時代の教授であり、
ルーカスは彼の神話学のアイディアからスターウォーズを製作しました。



冥想について

質問:
プラトンが「不滅にして聖なる想念」と呼んだものに心を集中させる、そんなことが出来るとお思いですか?

キャンベル:
もちろん冥想とはそれなんです。
冥想とはあるテーマを絶えず思考し続けることを意味しています。

質問:
すると祈りも冥想なのですか?

キャンベル:
祈りは神秘との関わりであり、神秘についての冥想です。

質問:
内面から力を呼び起こすこと?

キャンベル:

ローマカトリック教会で教えられる冥想の形は、ロザリオの祈りです。
同じ祈りを何度も何度も繰り返すのです。
そうすることによって心が内面に引き戻されます。

サンスクリットはこの行を「ジャパ」と呼んでいます。
「聖なる御名を繰り返し」という意味です。

それは他の興味を関心を締め出し、一つのことへの精神集中を可能にします。
そして神秘の深さを体験することも可能になります。

質問:
どうしたらそのような深い体験を持てるのでしょうか?

キャンベル:
私たちが真の啓示を体験するためには、自分の持っている神のイメージを壊す必要があります。
心理学者のユングは「宗教は神の経験に対する防衛機能(安全装置)」と呼んでいます。

イエスがどういう方であったかを知るためには、キリスト教の信仰を超え、キリスト教の教義を超え、
キリスト教会を超えなければならないと言う方々がたくさんいますね。

真言宗の「マントラ・ヨーガ」はさまざま神仏の名前の繰り返し・・もちろんインド起源の修行法です。


イエスの物語

イエスの物語の中には普遍的な英雄行為が語られています。

イエスは荒れ野に入り、そこで四十日を過ごした。
そこに悪魔が来てこうささやきます。
経済的試練です。

「お若いの腹が減っとるらしいな。この辺の石ころをパンに変えたらどうだ?」

「人はパンのみに生きるにあらず、神の口から出るひとつひとつの言葉で生きる。」

次に政治的誘惑が来ます。
イエスは山のてっぺんに連れて行かれて、世界の国々を見せられる。
そこで悪魔は言う。

「もしこの俺に頭を下げたら、この国々の支配者にしてやろう。」

イエスは拒否しました。

最後に悪魔はこうささやきます。

「そうか、お前がそんなに霊に満たされているのなら、ヘロデの神殿のてっぺんに行って、
 そこから飛び降りて見せろ。
 きっと神がお前を抱きとめてくれて、お前はかすり傷一つおわんだろう。」

これは精神的インフレと言われているものです。
自分は実に霊的で、肉体や世俗のものに遥かに超越しているという感覚です。

しかしイエスは受肉している。
もはや人間になっているのです。

ですから、「主なる神を試みてはならない。」と返事をします。

これはキリストの受けた三つの誘惑ですが、西暦30年当時と同様に、
現代にも深くかかわる問題です。


ブッダの物語

ブッダも森へ行って、導師たちに学び、菩提樹の下で覚りを開きました。

そこでブッダもイエスと同じように三つの誘惑に出会いました。

第一は情欲。
第二は恐怖。
第三は民衆の意見に従う・・・という誘惑です。

最初の誘惑で、情欲の神(悪魔)はブッダの前に三人の美しい娘たちを並べて見せました。
三人の名前は願望・実現・後悔=未来・現在・過去です。

しかしブッダは感覚への執着から解脱していましたから、少しも心を動かしませんでした。

次に情欲の神は、死の神に姿を変え、化け物の大群にすべての武器を
ブッダに向けるよう命じましたが、
ブッダは自分の中に永遠という不動の一点を見出していたので、
時間の影響を受けませんでした。

だから飛んできた矢は皆、彼に捧げる花に変わっていました。

最後に情欲と死の神は、社会的義務の神に姿を変えて言いました。

「おいきみ、きみは新聞を読まなかったのか。きょう何をすべきかわからないのか?」

これに対してブッダはただ右手の指先を地面に触れただけでした。
すると宇宙の母なる女神の声が、どこからともなく雷のように響き渡りました。

「私の愛する息子であるこの者は、すでに世のためにおのれを投げ打った。
 あれこれ指図を受けるような者ではない。たわけたことはやめるがいい。」

すると社会的義務の神が乗っていた象は、頭を下げてブッダを礼拝し、
神の一族は夢のように消えうせました。

その夜ブッダは覚りを開き、五十年この世に留まって、
自我の束縛を断つ道を人々に説いたのです。