神仏の復興を願って
日本化した仏教修行法

インドで始まった仏教は、中国を通過し道教や儒教の影響を受け、日本にやってきました。
そのため日本の仏教には、現世否定の思想が少なく、先祖供養の儀式が中心となっています。
そして覚りを求める仏教の修行体系は、わずかに禅宗の中にしか残されていないように見うけられます。

しかし仏教史を紐解くと修験道という神仏習合の修行体系が、
日本化した仏教の修行形態として存在していたのです。

私たちが日常性の中で苦しみ悩むことは、日常性の価値観しか持っていないからです。
ところがさまざまな山岳信仰では、仲間と非日常性の世界「おやま」へ行き修行をすることで
生と死を見つめ、生死を克服することを体験により学びます。

山駆けや滝行で肉体的な限界まで来た時に、気合を入れて立ち直る体験は、
自分に対する自信を起こさせます。

生かされている自分を発見するのです。
これこそが宗教的価値観(生かされている私)発見の最善の方法なのです。

アニミズムから一神教へ

江戸時代まで、神仏は習合という形で修験道の中に共存してきました。
神道の天照皇太神は大日如来と同じであると考えられていたのです。

共にその実体は太陽の象徴です。

このように万物に霊魂が宿る思想、アニミズムは日本に限らず世界の人々の信仰の中に見うけられます。

しかし明治政府はこのようなアニミズムの信仰は遅れたものと考えました。 

明治政府は、経済運営面で以前の日本のやり方はすべて遅れていて、
西洋の思想に習わなければならないと考えました。

そこで使われた言葉「和魂洋才」というキャッチフレーズは、
西洋の技術と日本人の魂を一致させようという試みでした。

しかしテクノロジーの奥には思想があります。
西欧の洋才により大量生産を始めた日本は、大量消費をする消費国を求めざるを得なくなりました。

当時は帝国主義的世界観が常識でした。
満州への進出は遅れて帝国主義の市場に参加した日本の宿命だったのでしょう・・・・・・。

西洋崇拝の明治国家は思想面をもキリスト教的一神教に変えようとしました。
それまで象徴であった天皇をキリスト教的、神の地位(一神教)に据えました。

そのため廃仏毀釈という運動が起こりました。

「廃仏毀釈」の動きに動揺した仏教界の中から、
真の仏教を求めてチベットへ旅立った河口慧海のような人物も現われたのです。

仏教界からの圧力により廃仏毀釈は収まりましたが、
修験道は仏教の一部としてしか存続することを許されませんでした。

神仏の喪失

明治時代に流入した英語でNATUREという言葉は、自然(しぜん)という翻訳をされました。

このことにより自然と人は分離される思想になってしまったのです。
それ以前は自然と書いてジネンと読む、思想を持っていたのです。

ある土地で災害や飢饉が来るのは、そこに住む人の行いが悪いから。
ジネンとは天と人が一体である思想でした。

それが明治以降、天と人は別の存在(二元論)になってしまったのです。

環境の悪化は、環境と人間が分けられるものであるという思想がもたらします。
際限のない国土の開発はこのような思想がもたらしたものでしょう。

明治・大正・昭和初期は日本が独立国として世界に飛躍しようという意思を持っていました。
また神の位置に据えられた天皇制という宗教は、日本人の誇りを保つ力となったのです。

しかし戦後のGHQの支配により天皇は神の座から降ろされました。
そして戦後の人々は物質性のみで幸せになれると考えました。

経済は幸運にも朝鮮戦争の勃発により飛躍的に成長し先進国の仲間入りができるようになりました。
しかし「このままでは世界でナンバーワンになる」ともいわれた経済力も、
バブルの崩壊と共に落ち込んでしまいました。

生きることに精一杯であった人にとって「なぜ、なんのために生きているのか?」
の自分への問いかけは必要なかったのでしょう。

しかし生きることが当たり前の今の世界では
この問いかけなしに生きつづけることは、大変難しいことなのです。

この問題に答えるための宗教性はアンビバレント、求めたいのに求められない最悪の状況になっていると思えます。
ニューエイジムーブメントの隆盛は、宗教性で得られない部分を補填している仮の動きに過ぎないのでしょう。

 チベット仏教の生れ変りの考え方

私たちの魂は自分のカルマにより、土地や両親を選んで生まれてきました。

死んだ魂は部屋の隅でしばらく過ごし、再生の場所を求めて各地を訪問します。
そして金持ちの家を捜して両親が性交をしている姿を部屋の片隅から観察し、
男性の精液の中に侵入していくのです。
卵子と結びついた魂は、そこで我に返ります。

その魂の前世のカルマにより、眼に見えている家や両親の姿は変わってしまうのです。
金持ちの家だと思っていたら、犬小屋で犬として再生してしまったり、
貧しい家の子供として再生してしまうのです。

魂はこの世で修行をしたくて、そのような選択をしたのです。

あくまでもこの世の存在は仮のもので、肉体(社会的価値観)に執着しないことが
本当の自分である魂(宗教的価値観)を発見する最良の方法なのです。

あなたは親とは別人格であり、あなたは覚りを開くためにこの世に生まれてきたのです。
多くの親子は「親が〜だからこうなってしまった。」と考えます。
責任を他者に押し付けるのです。

しかし魂は失敗しません。

神道の六根清浄太祓では「魂は万物の霊と同体なので、なすところの願いとして成就せずということなし。」と述べています。

人は分け御霊(みたま)、ろうそくの炎が神、まわりの明るさが心の中の魂なのです。

ゾクチェン(マハーサマーディ=三昧)

それではあなたの眼を惑わせる、社会的価値観とはなんでしょう。

私たちは何気なく最初は親から、現在の日本の価値観を刷りこまれます。

勉強しなければいけないよ!
良い大学に入らなければ幸せになれないよ!
女の幸せは結婚だよ!
あの人は死んでしまったからかわいそうだね! など、など・・・。

しかしこのように価値観が激変している現在、親の時代の価値観が通用するのでしょうか?

親は自分の時代のことしか知りません。
また価値観が多用であることさえ知らないかもしれません。
そして信じている言葉を吐きます。
良い勉強になりますね〜。

意識すると情報となります。そうでないとただの小言や文句です。
人というものを学ぶ最高の機会です。

親の魂にかぶさった価値観の檻。
あくまでも発言は親の意見に過ぎません。

この価値観という檻をはずすと、中にある光り輝く根源の魂が発見できるのです。

この修行法をチベットではゾクチェンと呼んでいます。

般若心経は不生不滅という言葉で、「生と死」は無いと説いています。
そうです、肉体は滅びても魂は死なないのです。

魂はいったん集合無意識(光明の世界)の中に参入し、輪廻転生し生き続けるのです。

本当の自分とは魂である自分。意識の奥にある無意識の存在です。

これを仏教では如来蔵と呼んでいます。あなたの中の如来、という意味です。

マントラ・ヨーガの修行法

それではどのようにして、その世界(光明・浄土・普遍的集合無意識)に入っていけるのでしょうか?

真言宗の祖・空海は虚空蔵求聞持によりその世界に入って行きました。
虚空蔵のマントラを繰り返す内に、音が聞こえてきます。
その瞑想が深まると音が言葉として聞こえてくるのです。

死の予告をして旅だった、ヨガ行者パラマハンサ・ヨガナンダは
「オームという音が聞こえ、行者の意識が深まるとそれが言葉として聞こえてくる。」と述べています。
マントラの唱え方には4種類あります。

1、大声で唱える。
2、自分の耳にだけ聞こえるように唱える。
3、舌の先だけ動かす。
4、心の中で響くリズムを想う。

目標は最後のマントラの唱え方です。
でもこうなるためにそれ以前の修行を繰り返さなければなりません。

またマントラを唱える時に、何回唱えているか数珠を繰るのも重要なことです。
指先で繰りながら、意識を一部この世界に残しておかなければなりません。

眠気防止のためにも必要なのです。ぜひお試しください。


代表的なマントラ
虚空蔵菩薩 ノウボウ・アカーシャ・キャリバヤ・オン・アリキャ・マリボリ・ソワカ
大日如来 オン・アビラウンケン・バザラダトバン
不動明王 ノウマク・サンマンダ・バザラダン・センダマカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン