シンボリズムで解くチベット密教

ヒマラヤを越える冥想旅行
心の形マンダラ(平面図)


カトマンドゥの中心街タメール周辺に入ると、
色とりどりの絵図が並べられた多くのタンカショップがあることに気付くだろう。

タンカとは仏教の教えを描いた絵であり、チベット・ネパール地域における、
密教の伝統の中で受け継がれてきた芸術である。

この絵画の中でも、丸や四角の幾何学的な模様によって描かれた「マンダラ」が
密教の教えの中心になっている。

心理学者ユングによると、マンダラは心の形を表現し、
中央の小さな円はエゴ(自我)を意味する。

エゴによって生起したイメージ(意識エネルギー)は四角い枠で囲まれた意識世界を通り、
四方の門より外側の円に移動する。

門の外は無意識世界であり、過去世からの多くのカルマが沈殿している。

         

この全体像をユングはセルフ(自己)と呼んだ。

もちろん仏教でいう自己とは、世界と同意語であり(梵我一如)、
すべての意識体の記憶が存在している場所でもあるのだ。

ユングはこの場所を普遍的集合無意識と名付けたが、仏教の伝統では
虚空蔵世界(アカシック・レコード)というデータベースとしての存在なのだ。

心の形ストゥーパ(立体図)


タメール地区から車で30分、チベット密教徒の集まるボーダナートの中心には、
高さ38メートル、外周100メートルの巨大なストゥーパ(仏塔)の眼が
人々を見下ろしている。
このストゥーパも心の形を表した密教の建造物なのである。

頂上は宝珠形、その下に半月の形、その下が三角形、その下が四角形、
そして台座の巨大な半円形につながっている。

       

ストゥーパを上部から鳥瞰図で観るとマンダラの形が現れる。

宝珠形(自我)から生起した「意識エネルギー」は、
半月(世界観=刷り込まれた認識)を通り、
下の三角形(感覚世界)にろ過されてくる。
そして四角形(意識世界)で言語化(定着)され実体のあるもののように仮想される。

その印象の体験が半円形の無意識世界にカルマとして沈殿し、
あらたな人生の種を生み出すのだ。

ストゥーパの形は空・風・火・地・水の五大エレメントで表されているのだ。

ユングは錬金術にも見られるこの五大を、
統合・思考・直観・感覚・感情のメタファーとして解釈している。

五色の旗(五大メタファー)


ストゥーパの中央、天空より周辺の大地に向かって五色の旗が翻っている。

この五色の旗は、五大の要素を表すそれぞれの色で構成されている。
黄・緑・赤・白・青は地・水・火・風・空の要素を表しているのだ。

なぜ五大のメタファーを使うのだろう?

     


仏教の中心論理は、生きる・死ぬ(生・滅)、きれい・汚い(浄・不浄)、増える・減る(増・減)
などの二元論を否定することにある。

言語(ロゴス)は二元論を導き出し、二元論は別けられないものを分けて思考し、
世界をバラバラのものであると仮想させてしまう。

一粒の米は畑、雨、太陽、風、空気そして農民の作業エネルギーがなくしては存在しない。
しかし、ひとたび「一粒の米」とコトバに出してしまうことによって、
「バラバラな言語概念世界」の中で小さな存在として評価されてしまうのだ。

真実の世界はすべてのものがつながりあった、一如(ワンネス)の世界であり、
相互に依存した縁によって生起した、「縁起の世界」なのだ。
その世界ではすべてのものに意味があり、相互にかかわりあっていると気付けるのだ。

その縁起の世界を認識するため、わきあがってくるイメージを否定し続けると、
残った部分に「空」が生じるのだ。

このヴェーダンタ哲学の仏教論理は、一見するとカオスを生み出しがちだ。
それを避けるために仏教が時間をかけて生み出した思想が、密教の「五大メタファー」なのだ。

世界は粗大な世界(地)から微細な世界(空)までの五大のあいまいな連続体であり、
人体も同じ構造(梵我一如)をしているのだ。

錬金術ではこれを「上にあるものは下にあるものの如し」と呼んでいる。

五体投地 拝


そのストゥーパの周辺は小さな壁で囲まれ、
壁の中には数多くのマニ車が埋め込まれている。
チベットの老人たちが口でぶつぶつとマントラを呟きながら、
右手でマニ車を回しながらストゥーパを周回する。

マントラは「オン・マニ・ペメ・フーン」であり、
その意味は「光明・摩尼宝珠・蓮華・金剛杵」を表している。

彼らはこのコトバの波動が、自己の波動を浄化し、死を迎えた輪廻転生の際に
解脱への道を助けてくれると考えているのだ。

熱心なチベット密教信者は、ストゥーパを回遊する人々の邪魔にならない場所で
五体投地・拝を繰り返している。
両手・両足・頭を地に付けて、一切の如来に帰依するのだ。

   

彼らにとっては、すべての出来事は如来からのメッセージであり、一切の如来に帰依するとは
「起こった出来事のすべてを受け入れる=No judgment only acceptance」
という態度の表明に過ぎないのだ。

両手の合掌を頭頂・喉・胸に下ろしながら、「オン・ア・フーン」のマントラを唱える。

この動作は、頭頂・喉・胸のチャクラに存在する身・口・意のエネルギーを
浄化すると考えられている。

ポタラ宮(観音の浄土)


チベット自治区の中心、ラサの小高い丘の上に立つ17世紀の建造物。
観音菩薩の住む補陀落(ポータラカ)という山にちなんで名付けられた。

ここの代々の当主ダライ・ラマは観音菩薩の変化身(権化=生き神様)と考えられている。
栃木県日光にある二荒山神社は二荒(ふたら=ポータラ)のコトバから転化したとされる。

       

チベット密教の世界観では、神々は如来、菩薩、護法尊(日本では明王・天部)の三段階に分かれる。

阿弥陀如来(化身パンチェン・ラマ)は完成した智慧の象徴であり、高次の存在だが、
この世には降りてこない。

そこで慈悲の力を持つ観音菩薩(化身ダライ・ラマ)の存在が、
この世に降りて人々を導くと考えられている。

その際に紛争などの力仕事は護法尊が引き受ける。
護法尊は善悪を超越した、性的合一(父母仏・ヤブユム=雌雄同体)の状態で描かれることが多い。

これは光と影の二元論に導かれがちの私たちに、男・女とコトバで分けてしまう以前の、
非二元論(不二)の状態を暗示させているのだ。

            
パンコル・チョルテン(立体マンダラ)


マンダラ(平面=女性性)とストゥーパ(立体=男性性)を統合した円形の重層式の建造物が、
ラサから車で南西に260キロメートル走ったギャンツェにある。

パンコル・チョルテンと呼ばれる37メートル、8階建ての建物は、
75の部屋に分かれ密教の世界が描かれている。

チベット仏教徒はここを右回りにらせん状に昇ることにより、
覚りの体験を追体験できると考えているのだ。

部屋ごとに如来や菩薩が描かれ、階を上がるにしたがって密教らしいマンダラや護法尊が登場し、
最上階には持金剛(ドルジェ・チャン)が本尊として祭られている。

持金剛(ドルジェ・チャン)は左手に金剛鈴、右手に金剛杵を持ち交差させて座している。
これは修行の最初にバラバラに持っていた金剛鈴(ガンター=女性性・智慧)と
金剛杵(ドルジェ=男性性・方便)が合一できたことを象徴しているのだ。

日本の密教・真言宗でも現象世界を胎蔵界(マトリックス=物質世界・女性性)・
金剛界(ダイヤモンド=精神世界・男性性)に分けながらも、
本来は金胎不二(分けられない)と宣言している。

そのために、如来・菩薩に礼拝する際の合掌は左手(胎蔵界)と右手(金剛界)が離れないように、
指先を交差させて金剛合掌を組むのだ。

聖なるヒマラヤを越える旅


チベットを旅することは冥想をしているようなものである。

高台にある僧院(ゴンパ)のテラスから見えるものは、果てしなく続く大地(地)と、
太陽の輝きを写した湖(水・火)と、彼方から彼方へ吹き渡る風の流れ(風)、
そして境目もなく広がる一面の空だけだ(空)。

近代文明の場所から離れるに従って、あなたは悠久の歴史の流れを戻ることになる。

自分が組織に所属している人間である前に、人類としての存在であったと気付ける場所は、
このような原始的な環境だけなのだ。

仏教の冥想法は、感覚器官から受ける情報から離れようとする。
眼をつむり、耳を閉じ、意識を呼吸に集中する。

チベットの旅をしていると、この様な努力をしなくても、視線の対象は遠くに過ぎ去り、
聞こえる音は風の音だけになり、悠久の時間だけが残る。

紅茶でも飲みながら大きく呼吸してみよう。
シャンバラからのメッセージが聞こえてくるかもしれない。