師と弟子


The four seals

All composite phenomena are impermanent.
All contaminated things and events are unsatisfactory.
All phenomena are empty and selfless.
Nirvana is true peace.

四法印

すべての現象は無常である(諸行無常)
すべての有漏(うろ)な物事や出来事は、満たされないものである(一切行苦)
すべての現象は、空で無我である(諸法無常)
涅槃は真の静寂である(涅槃寂静)        

宇宙のダルマ ダライ・ラマ14世


誤解は簡単に起こる

あるとき、友人が「所詮この世は一切行苦なんですよね!!」と言いました。
驚いてその理由を聞いてみると「お釈迦様がそう言ったんでしょ!!」と言うのです。

全文の意味を深く知らずに、言葉だけを知ると、勘違いをしてしまうことがあります。
翻訳文の有漏(うろ)とは汚れているということです。

世間的な価値観に洗脳されていると(汚されている)、
すべての行いは苦しくなるということです。

洗脳されていることに気づけばいいのです。

このような間違いを、道元は「月指す指は切り捨てよ!!」と言うのです。
一つの言葉(指)を知ると、そこにこだわるあまり、月(真理)が見えなくなってしまうのです。

これを乗り越えるには「ホントかな?」といつでも疑う心が必要になるのです。
また、知っていると思える先生に聞かないと、この先にはなかなか進めないのです。
そこで良き師が必要になるのです。

インドやチベットの伝統は、このような師と弟子の真理の継承法を重視してきました。

あまりにも真理が現世の価値観と離れているため、
顕教(言語化・文章化できる教え)では伝えられず、密教の教えにならざるを得ないのでしょう。

師と面授の弟子

浄土真宗の師・親鸞は「浄土に行くときが最高の喜び」と人々に伝えていました。
面従の弟子(そばにいて仕えている弟子を面従の弟子という)唯円は
あるとき先生に聞きました。

「先生、教えをうかがっていて、浄土はさぞかし素晴らしいところと思っているのですが、
どうしても行きたいと思えないのです?どうしてなのでしょう?」と質問しました。

この質問に親鸞は「唯円、お前もか!!」と答えたのです。
「いや〜、実は私も行きたいとは思えないのだよ。」と言うのです。

浄土に行くとは、死ぬということです。
死んだ後に、魂が肉体から抜け浄土に行くのです。
死が怖いというのは社会的価値観です。

いつかは死ぬ人生を見つめて、もとの故郷である浄土に帰ると考えるのがうれしいと考えるのが、
宗教的価値観です。

「行きたいと思えないのは、社会的価値観に洗脳されている(煩悩を持っている)証拠なんじゃないかい。」
と親鸞は言うのです。

このような、実直なコトバは宗教的価値観を学んでいる途中の人には誤解されやすく、
三代目の蓮如上人はこの言葉の書かれた「歎異抄(たんにしょう)」を隠してしまったのです。

弘法大師空海の場合

面授の弟子とは、相手のレベルに合わせて真理を伝えられる弟子ということです。

弘法大師空海は天台宗の最澄から弟子入りを申し込まれ、密教を教えていました。
弟子として灌頂の儀式もしていました。

本の借用を依頼され貸し続けていましたが、あるとき突然彼の申し出を断ってしまいました。

面授の弟子になるには、それまでの価値観を捨て白紙にならなければなりません。
そうするには、最澄があまりにも自己の仏教観を確立させすぎていたのでしょう。

インドのヨガ行者の場合

真剣な求道者(弟子)が一定の進境に達すると、
このような聖者(先生)にめぐり合う恩恵が与えられる。

その人は真理への道案内役として、求道者(弟子)を霊的に導いてくれる。

このような聖者(先生)の導きに忠実に従うことによって、
求道者(弟子)は、自分の全感覚器官の働きを、
それらの共通の中枢であるうちなる世界への入り口に集中することが出来るようになる。

するとそこを通して、宇宙波動オーム(コトバ・アーメン)が聞こえるようになり、
また聖霊の光を反映している内なる体が見えるようになる。       

――聖なる科学・スワミ・スリ・ユステスクワ――