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十歳の少女・荻野千尋が新興住宅地へ引越しをし、道を間違えるところから話が始まります。
道の先に小さなトンネルがあり、トンネルを抜けるとそこはテーマパークの残骸のような不思議な世界です。
両親は誰もいない店の料理を食べ始めます。
千尋は人気のない町を歩いていると、煙突から煙の出ている湯屋の建物にめぐり合います。
橋を渡ろうとすると古風な着物を着た少年が「ここへ来てはいけない、すぐもどれ、じきに夜が来る」と言います。
食堂に戻ってみると両親が豚になっていました。
トンネルへ戻ろうとしても、途中に川が流れて戻れません。
怖くなってうずくまっていると先ほどの少年ハクが現れ「辛くとも耐えて機会を待つんだよ」と言います。 |
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両親を豚にされてしまった千尋は湯屋で働くことを決意し、ボイラーマンの釜爺に会います。
釜爺はリンに手引きさせ湯婆婆に会わせます。
湯婆婆と契約し、名前を奪われた千尋は千として働き始めます。
千のところにハクがやってきて、豚になった両親に会わせますが、そのときに千尋の服も帰してくれます。
そこには友達からのカードがあり「チヒロ」と書かれています。
ハクは「名前を奪われると帰り道が分からなくなるんだよ」と言います。
ハクは自分の名前が分からなくなってしまったのです。
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千はその帰り、橋にたたずんでいたカオナシが気になります。
カオナシはオクサレ神の身体を洗うための薬湯の札をくれます。
千がオクサレ神のお腹に刺さっていた自転車を引き抜くと、風呂場には砂金がこぼれていました。
カオナシも蛙を飲み込み異常に大きくなっていきます。
ハクは銭婆の所から呪いの掛けられた印璽を盗み、死にそうになります。
カオナシはハクを助けようとする千に会い、砂金を出しますが、
「いま忙しいので失礼します」と行ってしまいます。
千は川の神にもらったニガ団子をハクに食べさせて、死の呪いのかかったハンコと虫を吐き出しますが、
ハクは倒れたまま動きません。
そこで銭婆にハンコを返しにいくことを決意します。
千は湯婆婆に呼ばれてカオナシに会いますが、「千は何が欲しいんだ」との質問に
「私の欲しいものはあなたに絶対出せない」と答えます。
千はカオナシの攻撃を逃げるうちにニガ団子を食べさせ、飲み込んだものを吐き出させ暴走も収まります。
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千は釜爺のくれた切符で、海原鉄道に乗り銭婆のところに向かいます。
気絶から戻ったハクも「千と両親を人間の世界に戻す」ことを条件に
命をかけて湯婆婆の大切な「ボウ」を取り戻すことを約束します。
銭婆のところにハクが行くと、銭婆は白龍の盗みを許してくれます。
湯屋に戻る途中、千尋は子供のころ川でおぼれかけたことを思い出します。
そのとき助けてくれた川の主がハクであった事に気付きます。
その川の名が「コハクガワ」だったと告げます。
そこでハクの魔法が解け、白龍の鱗が光りながら落ち少年の姿に戻ります。
湯屋に戻った千は12匹の豚の中から、両親を選べという質問に「ここにはいないよ」と正解を出し、
人間の世界に戻ることを許されます。
ハクは「決して後ろを振り向いてはいけないよ、トンネルを出るまではね」と言います。
人間の姿に戻っている両親と共に、トンネルをくぐると、自動車にはホコリや木の葉が溜まっていました。
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この文字をそのまま読むと、千尋(せんじん)の谷となります。 世の中は平面のように見えて、実際は深く、高い世界もあるのです。
ところが認識が浅いと、世界はフラットなままです。
そのような世界観が、その人の認識を縛っているからです。
ところが千尋の谷ならば、子供の心を保っているならば・・・
表層世界から深層意識世界への旅を体験できるのです。
尋は探すと同意語です。
プラトンの無知の知は問いただすところから始まります。
尋ねる旅をすることが、智慧の始まりです。
十歳の「ちひろ」は湯婆婆に名前を奪われ、千となります。
彼女を救ってくれたハクは、一+白・百の一つ手前の数字です。
白寿とは九十九歳の年齢です。
湯婆が名前を奪うということは、支配をすることにつながります。
刑務所に入ると番号で呼ばれるのは、それまでの社会性を奪われることになるのです。
ネパールの密教世界では、呪いは真実の名前にかけるので、
実名(イミナ)と世間的な名前(アザナ)と分けています。
魔法は実名にかけないと意味がないのです。
名前はその人の社会性をあらわすものですが、名刺では名前の前に会社名や役職が書いてあります。
人というものは、その人自身よりも、社会性の存在として認知されているのです。
私たちは、住民基本台帳によって、記号化、数字化され名前を失ってしまうかもしれません。
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車止めに置かれた石の人はこの世とあの世を分ける境界の守護神です。
トンネルは子宮を暗示させ、あの世に戻っていくことを意味しています。
千尋がためらったのは当然のことでしょう。
大人はトンネルの向こうが「テーマパークの残骸のようだ」とすまして言いますが、
子供の直観はまだ恐怖を残したままです。
修験道では岩に掘られたトンネルをくぐることにより、再生の儀式を果たしたことになります。
ネイティブ・アメリカンはスウェット・ロッジの儀式で、
真っ暗で小さなテントに入り再生の儀式を行います。
多くの前世体験者がトンネル体験を報告しています。
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最初はゴロゴロの石しかない場所が、夜になると川になります。
千尋はトンネルに戻ろうとしますが川の流れがあって戻れなくなります。
川は彼岸(ひがん=あの世)と此岸(しがん=この世)を分ける流れです。
この川は仏教では三途の川と呼ばれます。
トンネルと川とお花畑は、日本の前世体験者に共通のビジョンなのです。
その川にかかっているのが橋なのです。
油屋も橋を越えないと行けません。
聖なるものと俗なるものの境界にかかっているのが橋なのです。
だからこそ、川のそばの、橋のたもとに幽霊が出没するのです。
橋はまた移行のための場所でもあります。
あちら側からこちら側に移行する事により、通過儀礼(イニシエーション)が行われます。
これが立体的になれば、天国に続くハシゴの形になります。
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夜になると暗い町のあちらこちらに、輪郭のはっきりしない存在が現れ始めます。
これは人間の霊魂、不浄霊・浮遊霊です。
霊的信仰の話では高次の存在世界(油屋)に行く手前に、霊的世界があると語られています。
この世とあの世の中間、中有(中陰)といわれる世界です。
そこで過去の世界での反省をしてから、次の世界へ行けるのです。
彼らは個人としての自我もないため、形は描かれていません。
千尋が消えてしまいそうになるのもそのためです。
油屋の客がはっきりした形を取っているのとは対照的です。
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両親がむさぼるように食欲に飢えている様子は、現在の文明を象徴しています。
ブタは貪欲の象徴であり、無智の象徴です。
チベット仏教ではニワトリ(貪欲)、ヘビ(怒り)、ブタ(愚かさ)を人間の根本的な煩悩と説いています。 両親の食べていたものは、神に捧げる供物だったのです。
ところが母親は「いいわよそのうち来たらお金を払えば」と言い、
父親は「カードもお金も財布も持っているし」と言っています。
相手の都合も考えずに「お金さえ払えば良い」という考え方が現代文明を覆っているのです。
そのために「食べ物をブタのように食い散らかしたから」湯婆場にブタにされてしまったのです。
ハクが千をこっそりとブタ小屋に案内します。
「お腹がいっぱいで寝ているのだよ。人間だったことを今は忘れている」と言います。
でも人間とブタとそんなに違うのでしょうか? 現代は飽食の時代といわれています。
世界には飢えに苦しむ人々が、たくさんいることを知っていても、
無関心に食べ物に夢中になっている人々は「ブタ」ではないのでしょうか?
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この物語には二人のお婆さんが出てきます。
銭・婆と湯・婆=銭湯です。
かたや活動的な世界で切り盛りしています。
かたや夜の森の中の、静かな世界で慎ましやかに暮らしています。
太陽と月のような関係にありながら、二人で一つなのです。
油屋(ゆや)の湯は、愉(ゆかい=楽しい)喩(たとえ=物語)
癒(ちゆ=癒し)遊(ゆうゆう=遊び)の世界です。
古事記に書かれる原初の世界は、油が表面に浮かぶドロドロとした世界です。
八百万の神々は人間の世界の穢れを吸い込み、癒しを求めに油屋に訪れます。
そこで待ち構えている従業員は、ナメクジ女(遊女)とカエル男(へつらう男)、
そしてそれを管理するハク=白龍(ヘビ)です。
どれも爬虫類特有の奇妙なベタベタ感がします。
だからこそ、カオナシが差し出す金塊に目が眩む人々(爬虫類)ばかりなのです。
万物に神が宿るという日本古来の考え方からすれば、
川の神・・かまどの神・・食べ物の神・・がいて当然です。
彼らはリクリエーション(娯楽)として、油屋を訪れ、
リ・クリエーション(再・創造)されて帰宅します。
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カオナシは一人寂しい神様です。
橋のそばを千尋が通って彼に気付いたのも、千尋が寂しい状態だったからです。
カオナシは千に薬湯の札を渡そうとします。
「そんなにいらない。だめよ、ひとつでいいの」と千は断ります。
それに対してカエル男は欲望の亡者です。
そのカエル男を飲み込んだカオナシは、カエルの声で言葉を話し始めます。
マスコミなどで欲望を掻き立てられ欲しくもないものを求めてしまう、私たちのようです。
でも、千は欲しがりません。
カオナシは千に「千は何が欲しいんだ言ってごらん」「千 欲しい・・千 欲しい」
そして「欲しがれ・欲しがれ」と言います。
欲望を共有することで連帯感を求めているのです。
カオナシが「千は何が欲しいんだ」と言うと
千は「あなたは来たところへ帰ったほうが良いよ、私の欲しいものはあなたには出せない」と言います。
私の欲しいものとはお金で買える欲望の対象ではなく、両親やハクに対する愛情(愛し・愛される)ことなのです。
カオナシは油屋の従業員に囲まれ寂しさを一時的に忘れますが、千の答えに満足せず千を飲み込もうとします。
これがカオナシの千に対する愛の裏返しの行為なのです。
このカオナシこそが、カオという個性のない「さびしがり屋」の現代人のシンボルなのでしょう。
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オクサレ様やカオナシが飲み込んだものを吐く動作をします。
今まで溜まっていたものを無理やり吐く行為は、カタルシス(浄化・排泄)の行為なのです。
アリストテレスは悲劇を見て泣くことで、心の中のしこりが浄化すると考えました。
心の内部に抑圧された無意識の精神的外傷を、吐くことにより外部に消し去る行為なのです。
カエルたちを飲み込んだカオナシに、千がニガ団子を食べさせます。
そしてすべてを吐き出すことで元の自分に戻れるのです。
このような浄化の苦しみを通してしか、人の成長はないのかもしれません。
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新しい世界を獲得したときの成長のシンボルとして、飛ぶということが行われます。 仮想現実世界で白龍の姿をしたハクが飛ぶのは当たり前です。
ところが銭婆のところから、人間の姿をしたハクと千が手をつないで湯婆婆の所に戻る情景は、
この世界では異様に見えます。
これは、この物語が完成したことを意味してもいるのです。 ジブリの『紅の豚』では、主人公が「飛べないブタはただのブタ!!」と呟きます。
飛べない人は、日常性の中に埋没して夢をもてない人々の象徴なのです。
もちろん映画マトリックスでも、主人公ネオは「心を自由にする=Free Your Mind」ことで、
飛行することが出来るようになりました。
飛ぶことにより、過去の記憶を取り戻した千尋。
油屋での修行の旅は終わりつつあるのです。
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銭婆の家に千が向かうには、海原電鉄に乗らなければなりません。
釜爺は「昔は戻りの電車もあったんだが、近頃は行きっぱなしだ」と教えられます。
行きがあって戻りがないという事は、時間経過と同じです。
この電車はあの世行きの電車なのです。
千はリンの漕ぐ桶の舟(棺おけ)に乗って駅まで行きました。
電車のプレートには「中道」と書いてあります。
あの世とこの世を走る・・中道なのか・・仏教の思想「中道」を意味しているのでしょうか。
釜爺さんの言う「アノ魔女はコエエぞ」とは「あの世の薄暗さ=不安感」をさして言っているのでしょう。
実際にハンコを返しに行った千は、何も怖い思いなどしていないのです。
ただし帰ってこられなくなる恐怖感があるのです。
その恐怖感を千は、ハクを助けたい「愛」の思いで乗り越えたのです。 |
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引越しの車の中で、田舎へ移ることが不満な千尋は「前のほうがいいもん」と言います。
現状を否定し過去への退行現象を起こしてぐずっているのです。
しかし、両親をブタにされてしまってからは・・受身の姿勢から能動的な態度に変わってきます。
仕事(社会参加)をしないと、油屋の世界では消されてしまうのです。
「働きたい!!」といえばこの世界の支配者・湯婆婆にも消し去ることは出来ないのです。
湯婆婆のところに行くと、顔の形をしたノッカーに
「ノックもしないのかい、まぁみっともない娘が来たもんだ」と言われます。
ススワタリの手伝いをしても「手え出すんなら、しまいまでやれ」と釜爺に言われます。
単なる同情で仕事は出来ないのです。
行為には責任が付きまとうのです。
拭き掃除をしても「千もっと力入らないの?」とリンに言われます。
このように、いままで家庭の手伝いもしていなかった十歳の一人っ子が、
油屋の世界で両親やハクを救うために働き、成長していきます。
この記憶が彼女を成長させますが、両親はこの世界での記憶が残っていません。
トンネルの向こう側に出てみると、止めていた車に木の葉が溜まっていたり・・ホコリがついているのですから、
不思議な油屋の世界では3〜4日経っていたのです。
しかし現実世界では時間経過がないように思えるのです。
ひょっとすると千尋一家に対して、捜索願が出されているかもしれません。
千尋のこのような体験を・・昔の人々は「神隠し」と呼んでいました。
このような体験(UFOのアブダクション・神秘体験・神隠し)があった人々は、
人生に対する態度が大きく変化し、別人のような行動をするようになります。
衝撃的な内的体験こそが・・・人々を成長させるのですから。 参考文献:【「千と千尋の神隠し」の言葉と謎・佐々木隆・著】 |
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