パラマハンサ・ヨガナンダのコトバ

すべての時間を消え去りゆくもののために費やして、何の役に立つのでしょう?

人生とはまさにドラマであり、幻影に過ぎないという真実を教えるための教訓劇なのです。

愚者は、その劇を真実でいつまでも続くものだと思い、悲しい場面で泣き、幸せな場面が長続きしないと歎き、
さらには、その劇が最後には終わってしまうと悲しみます。

苦悩とはそうした霊的盲目への戒めなのです。

しかし賢者は、そのドラマを観て、それがまったくの「まやかし」であることを知っているので、
内なる自我の中に永遠の喜びを探求します。

生命とはその扱いを知らないものには、恐ろしい機械装置のようなものです。
遅かれ早かれその人自身を灰にしてしまうのですから。

神を見つける


神を見つける人はいつも最善の努力をする人であり、
『静かな場所さえあれば冥想できるのですが・・』と言い訳をする人ではありません。

先延ばしばかりする人は、決して神に到達することはできません。
しかし、もし自分自身に『いまこの瞬間から、深い冥想に入ります。』と言うなら、
すぐにでもその場所に至ることが出来るのです。

人が本当に眠いときどこででも眠れませんか?
神を愛するものにとっても同じです。

どこであれ、駅や市場の中でさえ冥想できるのです。

冥想の勧め


冥想をするのに、冥想の成果にこだわってはなりません。
むしろ神を喜ばすために冥想しなさい。

もし良い結果を求めてすれば、その結果がやってこないとき落胆することになります。

バガバット・ギータの中で、クリシュナは「成果を期待しない行為」を勧めています。
冥想もまたそのような気持ちで、取り組まれるべきです。

成果への執着のない冥想に取り組みなさい。

冥想で目指すもの


冥想で目指すものは、考えるという行為を超越することです。

何かを考えている限り普通の意識レベルに留まります。

夢を見るときはあなたは潜在意識下に入ります。
つまりそれはアストラル体がより意識されている状態です。

意識がさらにもっと深く超意識へと入っていけば、あなたは脊椎を柱として、
無上の喜びの中心にいるのに気付きます。

その至福の中で、あなたはコーザル体、即ち自分の魂の中にいることに気付くのです。


空海:般若心経秘鍵

文殊の利剣は諸虚を断つ、覚母の梵文は調御の師なり。

チク・マンの真言を種子とす。諸経を含蔵せる陀羅尼なり。

無辺の生死、いかんが良く断つ。

ただ禅那・正思惟のみあってす。

(この世が幻想である)という文殊菩薩の智慧の剣の刃は、すべての幻想を絶(断)ちます。
「チク・マン」の般若仏母のサンスクリット文字は、心を超意識へ導く先生です。

生まれ・生まれて、生死を繰り返す人生を断って解脱するには、
禅那(冥想)と正思惟(正しい哲学・科学)だけが必要なのです。

苦しみはなぜ生じるのですか?


「もし私たちが神の子であるなら、また、私たちのことを神が愛しているなら、
 どうして私たちを苦しむがままに、しておくのですか?」

ヨガナンダが答えました。

「苦しみとは、この世が私たちにとって本当の家でないことを思いださせるためのものです。

 もしこれが私たちにとって完全な家であるなら、誰もより良い世界を求めたりしません。

 しかしこんなにすべてが不完全でも、実際にはほんのわずかな人しか、神を求めようとしません。」

嘆異抄での弟子・唯円と師・親鸞の会話


「先生、私はどうしても・・死後に行けるという・・・素晴らしい国(浄土)があるとは、思えないのですが。」

浄土真宗の祖師・親鸞は答えます。

親鸞:「唯円、お前もか・・・実は私も、死後の世界(浄土)に・・・行きたいとは思えないんだよ。」

唯円:「え〜、先生はいつも、お浄土は素晴らしく、美しいところだよと、言っていますよね?」

親鸞:「真実を曇らせてしまうのは、煩悩(社会的価値観)があるという、いい証拠にならないかい・・・?」


禅宗の考え


道元は真実を月に例えています。
煩悩(社会的価値観)を雲に例えます。

雲がいっぱいだと、月がどこにあるかわかりません。

ところが、師の上には雲がかかっていません。
そこで師は、「月がここにあるよ」と方向を指し示します。

弟子はその方向を見る(神を想う・座禅する)だけでいいのです。

ところが多くの弟子は、そのコトバにとらわれて、師の顔ばかり見ています。
そこで道元は「月刺す指は、切り捨てよ!!」と過激な発言をします。

依存を断ち、自らが(光を見る)体験をせよというのです。

煩悩・即・菩提


この世のことを仏教では、穢土(サンサーラ)と呼びます。
最初に死んだ人間である、閻魔大王の創った程度の低い世界です。

そこは、六道輪廻の世界であり、それ以外の世界があると言うことを誰も知りません。
その価値観の中で右往左往してしまうのです。

この世界(社会的価値観)を抜け出し、光の世界(浄土=ニルバーナ)を目指すことを解脱と呼びます。
そして浄土に行こうと思うことを、菩提心を持つというのです。

菩提心は金剛(バジュラ)に例えられます。
ダイヤモンドのように光り輝き、ゆるがない硬さを例えているのです。

密教での「煩悩即菩提」とは、煩悩の苦しみがあるからこそ、そこを抜け出し、
浄土を求めるというきっかけになるという教えです。

「セルフ・リアライゼーション(真我の覚醒)という概念に私は惹かれます。
 しかしそれと神を賛美することとが、どのように関係付けていられるのか、良くわかりません。
 あなたの教えは、よもや己の自我を賛美すべきだということではありませんよね?」

と哲学を専攻する一人の大学生が、ヨガナンダに質問しました。

ヨガナンダが答えます。

「セルフ・リアライゼーションの道においては、人は小さなエゴから
 『無限なる真我』の意識への同化を探求します。

しかしこれは人間の思考では捉えがたい概念なのです。

だから、高次の 霊的レベルに進化するまでは、人は神のことを「私」と思うのではなく、
「あなた」として近づいてゆくほうがいいのです。

また霊的な視点から言えば、すべては一つの神なる「大我」の顕現であるにもかかわらず、
人間としては私たちが他人のことを自分から分離したものとして見るのは、自然なことです。

神が応答するのは、子である人間の心からの一途な思いに対してであり、
決して誇らしげな「我は神なり」という宣言に対してではありません。


我は神なり・・我は大日如来なり


真言宗の四度加行の階梯(ステップ)の中では、最初に、我は金剛サッタなりと宣言し、
自他不二の道を模索します。
そして最終的には「我は大日如来なり」と、大我の内在を宣言するのです。

宇宙(毘廬遮那)意識の宣言は、コトバによる分離を発見し、言葉以前の存在に触れる必要があります。

そのために真言宗では「言説不可得」、禅宗では「不立文字」と唱え、
三昧の境地を求め冥想(座禅)するのです。



はちと神さま・・金子みすず



はちはお花の中に

お花はお庭の中に

お庭は土塀の中に

土塀は町の中に

町は日本の中に

日本は世界の中に

世界は神様の中に。

そうして、そうして、神様は

小さなはちのなかに。


「この宇宙を創るための物質はどこから来たのでしょう?
 天地創造以前には神しかいなかったのです。」

「”神は全能である。神はどんな奇跡も行うことが出来る”といってみたところで、
 何の説明にもなりません。
 奇跡でさえ、実際には何らかの理由があるに違い無いのですから。」

「神は意識です。そうでないなら、神ではありません。
 どうであれ、神はその意識から生じた産物として、物質を生み出し、
 このように存在させる必要があったのです。

 神の意識の顕在化以外では、宇宙の現実はありえないのです。

 もし、これが真実で、またそうして、そうでしかありえないのなら、
 意識が現実で、物質界は幻想なのです。

 科学そのものが、この命題を支持しています。
 少なくとも私たちの知っているような物質は幻想であることを明らかにしています。

 私たちの周りにあるのは、実は硬い岩岩、聳え立つ木木、流れる幾多の川など、
 それぞれ個別に識別できるような有形の存在ではありません。

 これらの見かけの背後にあるのは、動き回る原始の集団です。
 しかしこの原子の集団でさえ、幻想なのです。

 なぜなら岩や木や水や人間そして動物の肉体を構成しているそうした原子は、
 背後にある海のようなエネルギーによって創り出されているからです。

 宇宙エネルギーの背後にあるのは、究極的には神の想念です。

 これは物質的宇宙が現実ではないということではありません。
 その現実は見かけどおりではないということではあり、
 すべての根底にある真の現実(リアリティ)は意識だということです。

 宇宙の存在は、神が夢想することによって可能となったのです。」

現代の科学は、目に見えないこのフィールドをゼロ・ポイント・フィールドと呼んでいるが、
錬金術ではこれをエーテルと呼び、空海は「虚空蔵」と呼んだ。


「あなたは単にお金を稼ぎ、子供を作り、死んでいくために生まれたわけではありません。
 あなたには輝かしい究極の目的があります。

 あなたは無限ある神から生まれて来たのです。

 あなたが求め、夢見てきたものすべてを満足させるものが、
 神なる場所で、気付いてもらうのをじっと待っています。

 神の無限の宝庫は、あなたのものです。

 どうして ぐずぐずするのですか。
 どうして回り道ばかりして無駄に時間を過ごすのですか?
 まっしぐらに神の元に行きなさい。」

仏教ではこれを「菩提心を得る」といいます。
覚りを開くために生まれてきたと、気付くことなのです。

       (おん・ぼうじしった・ぼだはだやみ)


「その死人を葬ることは、死人に任せておくが良い。(マタイ8・22)」とイエスが言われたとき、
 イエスは何を言おうとされたのか?
 このことを少し考えてみてください。

「ほとんどの人は死んでいる。それなのに死んでいることに気付かない。」
 これがイエスの真意です。

 多くの人は人生においてどんな志も、率先してやる気も、熱も霊的情熱も、喜びも、・・・
 持ち合わせていないということです。

 機械のごとく無意識に生きることは、いかに肉体が息をしていようとも、
 その内側では死んでいるのです。

多くの人が、他人(レベルの低い)の言葉を信じて生きています。
コードを後ろにつけていることも知らず、他者のコトバの洗脳にあっています。
コードを抜いて、自ら考えること。
映画マトリックスでは、これを・・心を解き放つ(Free Your Mind)と呼んでいます。


冥想で目指すものは、考えるという行為を超越することです。
何かを考えている限り、普通の意識レベルに留まります。

夢を見るときはあなたの潜在意識に入ります。
つまりそれはアストラル体がより意識されている状態です。

意識がさらにもっと深く超意識へと入っていけば、あなたは脊柱を柱として、
無上の喜びの中心にいることに気付きます。

その至福の中で、あなたはコーザル体、即ち自分の魂の中にいることに気付くのです。



冥想をするのに冥想の成果にこだわってはなりません。
むしろ神を喜ばすために冥想しなさい。
もし良い結果を求めてすれば、その結果がやってこないとき落胆するだけです。

バガヴァット・ギータのなかで、クリシュナは、成果を期待しない行為を勧めています。
冥想もまた、そのような気持ちで取り組まれるべきです。
成果への執着のない冥想に取り組みなさい。

                  師:スワミ・スリ・ユクテスワ&パラマハンサ・ヨガナンダ