文殊の利剣は諸虚を断つ、覚母の梵文は調御の師なり。
チク・マンの真言を種子とす。諸経を含蔵せる陀羅尼なり。
無辺の生死、いかんが良く断つ。
ただ禅那・正思惟のみあってす。
(この世が幻想である)という文殊菩薩の智慧の剣の刃は、すべての幻想を絶(断)ちます。
「チク・マン」の般若仏母のサンスクリット文字は、心を超意識へ導く先生です。
生まれ・生まれて、生死を繰り返す人生を断って解脱するには、
禅那(冥想)と正思惟(正しい哲学・科学)だけが必要なのです。
「もし私たちが神の子であるなら、また、私たちのことを神が愛しているなら、
どうして私たちを苦しむがままに、しておくのですか?」
ヨガナンダが答えました。
「苦しみとは、この世が私たちにとって本当の家でないことを思いださせるためのものです。
もしこれが私たちにとって完全な家であるなら、誰もより良い世界を求めたりしません。
しかしこんなにすべてが不完全でも、実際にはほんのわずかな人しか、神を求めようとしません。」
「先生、私はどうしても・・死後に行けるという・・・素晴らしい国(浄土)があるとは、思えないのですが。」
浄土真宗の祖師・親鸞は答えます。
「唯円、お前もか・・。」
「実は私も、死後の世界(浄土)に・・行きたいとは思えないんだよ。」
唯円:「え〜、先生はいつも、お浄土は素晴らしく、美しいところだよと、言っていますよね?」
親鸞:「真実を曇らせてしまうのは、煩悩(社会的価値観)があるという、いい証拠にならないかい・・・?」
道元は真実を月に例えています。
煩悩(社会的価値観)を雲に例えます。
雲がいっぱいだと、月がどこにあるかわかりません。
ところが、師の上には雲がかかっていません。
そこで師は、「月がここにあるよ」と方向を指し示します。
弟子はその方向を見る(神を想う・座禅する)だけでいいのです。
ところが多くの弟子は、そのコトバにとらわれて、師の顔ばかり見ています。
そこで道元は「月刺す指は、切り捨てよ!!」と過激な発言をします。
依存を断ち、自らが(光を見る)体験をせよというのです。
この世のことを仏教では、穢土(サンサーラ)と呼びます。
最初に死んだ人間である、閻魔大王の創った程度の低い世界です。
そこは、六道輪廻の世界であり、それ以外の世界があると言うことを誰も知りません。
その価値観の中で右往左往してしまうのです。
この世界(社会的価値観)を抜け出し、光の世界(浄土=ニルバーナ)を目指すことを解脱と呼びます。
そして浄土に行こうと思うことを、菩提心を持つというのです。
菩提心は金剛(バジュラ)に例えられます。
ダイヤモンドのように光り輝き、ゆるがない硬さを例えているのです。
密教での「煩悩即菩提」とは、煩悩の苦しみがあるからこそ、そこを抜け出し、
浄土を求めるというきっかけになるという教えです。
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