理趣経の秘密
菩薩(金剛サッタ)になる


どうすれば修行者は、菩薩(金剛サッタ)になれるのでしょうか?

それは、三禮をしながら普礼の真言を唱えることによってです。

普礼とは、
「オン・サルバ・タタギャタ・ハンナ・マンナノウ・キャロミ」
「一切の如来に帰依したてまつる」と唱えることです。

それはこの世が感応道交の世界で、偏在する如来・菩薩・明王・天、
そして、外金剛部とも言われる怪異な鬼神にも礼拝するということです。

仏教での鬼神とは未成仏霊を指します。

曼荼羅の諸尊を拝むということは、仏だから拝むのではなく、
低レベルの存在・鬼神をも・・・拝むのです。

そして一切を仏として拝むとき、拝む本人もまた成仏するのです。

私たちは自身を苦しめるものを、悪鬼や魔性・悪者のように思います。
そのような鬼神のような人々をも・・仏として拝むとき、祈る人も祈られる人も、
感応道交し、菩薩となるのです。

このときに、両手に持花印を作ります。
親指と人差し指で、摩尼宝珠を作るのです。
その他の三本の指は、宝珠からあふれ出る光の流れです。

摩尼宝珠とは覚りの智慧の象徴であり、その智慧が世界にあふれ出るイメージを作りましょう。

その後、金剛合掌をします。左手は行者であり、右手は本尊です。
これが交差しているということは、入我我入したというシンボルです。

この動作を繰り返すことにより、三禮は終わります。
お時間があるときには、百禮なども試みてみましょう。

理趣経 〜〜真理への道


〜〜理趣経
(りしゅきょう:真言宗の主なお経) 和訳:金岡秀友先生

            <声に出してお読み下さい>

プロローグ

かの毘廬遮那(びるしゃな)に われ帰依す。
ほとけの道に  けがれなし。

生まれ生まれて われ会うは、
類まれなる   かの教え。

世々に唱えて  忘れまじ。
大師の光    いや増さん。

本尊、諸仏   みなそわす。
先亡の霊も   覚りあり。

経題

その名正しく 唱うれば、
「大楽、金剛、不空にして ほとけの境地をしめす経」

また別の名を言うときは 、
「真実・智慧の極意の経」

大興善寺の翻訳僧、大広智・不空しるしたり。

序章

かくのごとくに われ聞けり。
あるとき世尊は、一切の、
ほとけの持てる 金剛の
不壊なる境地に 到(つ)きたまう。

かくて世尊は、
世のすべて
ほとけの持てる最上の
智慧と心を持ちたもう。

ほとけのすべての行いは、
等しき愛に基づいて
種々さまざまにひろがりぬ。

かくて世尊は、あますなく、
すべての人の 世における、
あまたの願いを 満ちたらし、

三世すべての 時にあり、
身口意 すべての行いに、
止まりたまう かたもなし。

世尊の御名は この故に、
「あまねく すべてを 照らすもの」=
「大日如来」と呼びまつる

このみほとけの あるところ、
すべてのものを救う天=
他化自在と 呼びまつる。

ほとけは常に 行き交いて、
いみじき美をば 誉めたもう
宝石づくりの 宮居なり。

宝くさぐさ 入り混じり、
鈴や 大鈴 絹のはた、
そよ吹く風に 揺れ動き、

宝珠の花輪 飾りなど、
半月 満月の 形もて、
所狭しと 飾られぬ。

この美しき 宮殿に、
われらの師なる みほとけは、
八十億の 菩薩具し、
いとも静かに 座したもう。

中にも 菩薩のしるしたる、
金剛手をはじめとし、
観自在に 虚空蔵
金剛拳に 文殊師利。
サイ発心転法輪。

虚空庫に サイ一切魔。
これら八大菩薩は、
等しく 一座の要なり。

われらの師なる みほとけは、
これら菩薩に囲まれて、
静かに 法を説き給う。

そのみ教えは 始め善く、
中善く 終わり善く、
ふん義 すこぶる巧みにて、
誤りなくして 清らなり。

理趣経:第一章


欲みな なべて清らなり。

〈大楽の教え〉

そのみ教えは、「ものみななべて清ら」という。

1、(男女の道にも喩えるべき)
  妙適(たえ)にも 良ろしき 心地こそ、
  清き菩薩の 境地なり。

2、(止まらぬこと)矢のごとき、
  欲の働く心地こそ、
  清き菩薩の 境地なり。

3、(男女互いの)触れ合いも、
  清き菩薩の 境地なり。

4、(男女互いに抱きあい)
  離さず 縛がん その心、
  清き菩薩の 境地なり。

5、(男女抱きて満足し)
  すべてに自由、
  すべてに主、
  天にも登らん その心地、
  これまた菩薩の 境地なり。

6、(欲心もって異性を)見、
  これまた清き 菩薩の境地なり。

7、(男女互いに交わりて)
  適悦(よろしき)心地味わうも、
  清き菩薩の 境地なり。

8、(男女の)愛も それもまた、
  清き菩薩の 境地なり。

9、(人の心に浮かびくる)
  自慢の心 それもまた、
  清き菩薩の 境地なり。

10、ものを飾りて喜ぶも、
   清き菩薩の 境地なり。

11、(世のすべてに満ち足りて)
   こころ喜ぶ そのことも、
   清き菩薩の 境地なり。

12、(世のすべてに満ち足りて)
   光り輝く その心、
   清き菩薩の 境地なり。

13、身体の楽も 異ならず、
   清き菩薩の 境地なり。

14、(目の当たりなる)ものの色
   それも菩薩の 境地なり 。

15、(われらの日夜 耳にする)
   音も菩薩の 境地なり。

16、この世の香り、それもまた、
   清き菩薩の 境地なり。
   
17、(われらすべての口にする)
   味も菩薩の 境地なり。

われら今なお ここに問う。
欲、何ゆえに 清らなる。

ほとけわれらに 宣りたまう。

人の懐(いだ)ける 欲もまた、
世にあるすべてのものは皆、
その本性(もと)なべて清らなり。

かくて人々 聞けよかし、
智慧の眼を見開きて、
世にあるすべてを 眺むれば、
智慧の境地に至りつき、
われ、ひと、共に清まらん。

金剛手菩薩、聞けよかし、
すべてのものの 清らなる、
般若の教え 耳にせば、
障りすべては 消え去りて、
光の道場(にわ)に 入りぬらん。

障りすべては 何々ぞ。
(貪り・怒り・さまざまの)
煩悩(なやみ)もたらすその障り、

法を耳にせぬ 障り、
悪業 止めえぬ 障り、
これらの 障り 重ぬとも、
ひとたび清き 道を得ば、
地獄に 落ちることも 無く、
罪に 陥ることも 無し。

(ただ聞くだけに止まらず)
良く身に保ち 日々唱え、
さらに心に 思惟(おも)いなば、
父母(ぶも)の生み出す この身もて、
ものの本性(もと)なる 平等(ひとしさ)と、
変わることなき 金剛の、
安けき 心地に 入りぬらん。

入りなん後の そのときは、
(何に縛られることも無く)
自由となりて 測りなき、
快楽(けらく)歓喜(かんぎ)に 満ちぬらん。

十六人の大菩薩、
それぞれ示す 十六・生(しょう)、
その道すべてを 進み行き、
それらすべての 果てにある、
金剛不壊なる 大日の、
遍照の境地に入りぬらん。

ここに世尊なる金剛手、
一切諸仏の覚りたる、
マンダラ中に 住みたもう、
持金剛者の最勝なり。

この世の悪を 調伏(うちなび)け、
余すかたなく 一切(すべて)の 善きこと、
なべて成したまう。

この金剛手大菩薩、
「欲のすべて 清らなり」、
この教えをば 示めさんと、
お顔和らげ 微笑みて、
「金剛印」の印結び、
右手(めて)に 五鈷杵を動かして、
進む勢い示したり。

大(だい)なる 楽は 金剛の
不壊(ふえ)なる上に 空ならず、
この境地をば 示さんと、
聖音「フーン」と唱えたり。

理趣経:百字の偈


菩薩は すぐれし 智慧を持ち
なべて 生死の 尽きるまで
恒(つね)に 衆生の 利をはかり、
たえて 涅槃に おもむかず。

世にあるもの(方便)も その性(般若)も
智慧の 及ばぬ ものは無し。

ものの姿(有)も そのもの(法)も、
一切のものは みな清浄(きよし)。

欲が世間をととのえて、
よく清らかになすゆえに、
すぐれしものも また悪も、
みなことごとく うちなびく。

蓮は泥に 咲きいでて、
花は 汚れに 染(けが)されず。

すべての欲も また同じ。
そのままにして 人を利す。

大なる欲は 清浄(きよき)なり。
大なる楽に 富みさかう。
この世の自由 身につきて、
堅くゆるがぬ 利を得たり。

理趣経:最終章


〈流通文:るづうぶん〉

時にすべての仏たち、
持金剛なる菩薩らは、
すべてこの座に集まりて、
この教えをして 空ならず、

さまたげあること あらしめず、
とくとく成就せしめんと、
共に讃えて 呼びなせり。

(金剛手菩薩の讃にいう)

「よきかな 善きかな 大なるひと、
 よきかな 善きかな 大なる楽、
 よきかな 善きかな こよなき法、
 よきかな 善きかな 大なる智慧」

善くこの教え 説くときは、
経に 金剛の力あり。
この善き教えを 身にもてば
一切の魔障(さわり)せまりえず。

ほとけ・ぼさつの位を得、
成就うること かたからず。
すべてのほとけ また菩薩、
共に教えを 説き終わり、

聞くもの なべて 救わんと、
こころ喜ばぬ ものは 無し。