武蔵御嶽神社の修行体験に参加して
先日、御岳山の武蔵御嶽神社での1泊2日の修行体験に参加してきた。

その感想を記してみた。

なぜ参加したか?

直接的なきっかけは、まんだらやさんのホームページで知って。

以前から興味がないわけではなかった。
が、神社に対して特に親しみを感じていなかったということ、
それから最近は日々の行の効果を実感し出したこともあって、
何もわざわざ修行に出かけなくても?という思いが強かった。

しかし、気功の動作の中に神道の行と同じ動作がある、と小林さんがちらっと一言発した言葉が気になった。
そこから興味が膨らみ、何かあるな、一度体験してみよう、というわけで参加した。つまりは興味本位で。

当日を迎えて

修行体験の1週間前からずっと睡眠時間3〜4時間の日が続いた。

『空海の夢』の著者でもある松岡正剛氏が校長を勤める「ISIS編集学校」で
師範代をめざしての道場にネット上で参加していて、それが始まっていたため。

こちらも道場という名にふさわしい鍛練が繰り返されていて、結構しぼりあげられていた。
もちろんおもしろくてやっている部分はあるので無我夢中である。

そんな中感覚は研ぎすまれていたが、体力的には不安を抱えての参加。

しかし精神的にも身体的にも今までに感じたことのない状態での参加は、
どんなことになるのだろうと、楽しみでもあった。

面食らいつつも

今回は初めての参加者が多いとのこと。
同室の女性3名も初めての参加とのことだった。

もともと神道に縁がない私。実家には神棚はない。
嫁いだ家には神棚があったし、義父は神社の社総代もしていたから、お祭りのときにはそれなりの準備をしたり、
正月には近くの鬼子母神さんが、家々をまわって祝詞をあげに来られていた。

多少は免疫があったけれど、細々とした作法には面食らうことばかり。
それでも「郷に入りては郷に従え」でわからないなりにも所作をまねてみる。

殊に「鳥船」の動作は興味深い。
気功にも同じような動作があること、唱える言葉が明らかに「イ、エ、オ、ア」の母音を意識していることもおもしろい。

「振魂」に至っては、左右の手それぞれがもつ陰の気と陽の気を、拳の中で混ぜながら振り動かすことによって、
振動を与えてエネルギーを増幅させている?!

きっと物理学の言葉で説明できるに違いないと思う。(私は物理学に関しては知らないが)

大祓詞の奏上、うん?これって般若心経を繰り返し詠唱するのと同じではないか。

最初は、独特の言い回しと奏上の仕方に面食らい、!?!?と絶句していたが、
なんだか倍音声明もどきだなあと思いながら気を取り直す。

今回の修行体験のお世話役である神職の須崎さんはとても声がいいなあ、と思っていた。
この奏上の時、私はたまたま一番前の列に座って、奏上の最初の言葉を放つ7人の道彦の1人だった。

ちょうど須崎さんが目の前に座っていた。
かなり長い詞を7回繰り返し奏上するのだが、4,5回めあたりだろうか、
明らかに須崎さんは気持ちよさげに朦朧としている様子がうかがわれた。

なんだなんだ、神社でも似たようなことしてるんではないか、と那須の護摩に参加したことのある私は
妙に親近感を覚えた。

夜行った「音霊鎮魂」もおもしろかった。
自分の魂を自由に飛ばす。気功でいえば、自発動だな。こりゃいいな、と思って
会いたかった人や気になっていた人に会いに行ったり、せっかちな私はびゅうびゅう、飛び回っていた。

しかし後半は、あぐらを組んだ足が痛くて痛くて、そっちの方に意識がいってしまい、
意識が向こうに飛んだかと思えば痛い足に戻ってくるという始末でなんとも情けなや。

が、この痛いという身体感覚があるからこそ、こちらに戻って来れるわけで、まあいいか。
楽な姿勢でやってもいいそうで、今度は楽な姿勢で試してみたい。

須崎さんは確か京都の石清水八幡?の前の前の前の宮司にこの方法を教えてもらったとおっしゃられていたが、
なんだ神社でも同じことやってるんだ〜、とまたまた親しみを感じた。

大勢で修行することの意味

この他にも滝行、山懸などの行が行われる。
1泊2日の全行程を通して盛りだくさんの内容で充実していた。

日ごろの行では、なかなかこの充実度は味わえない。

かなりの疲労がたまった状態で参加したし、行の合間では睡魔が襲ってくるわ、大あくびを連発するわ、
山歩き自体は好きだし距離的にも大変ではなかったが、蒸し暑さに結構きていた。

が、お肌はすべすべになったし、けだるさも感じず、気力の充実を感じることができたのは、
やはり他の参加者がいたからこそ。

御岳山という場のもつエネルギー、迎えてくれた神職さんや宿の主人などお世話してくださった方のエネルギー、
そして参加した方々のエネルギーを感じられたからだと思う。

これは日々の行や1人での行ではなかなか得られないわけで、
大勢で修行することの意味を感じた2日間だった。

でもその意味を感じられたのは、日々の行の積み重ねであることは強調しておきたい。

得度って?

帰りの電車の中で、同室になった参加者の方と話をしていた。

私、今度得度しようと思っているんだ、と話したら
,一人の方は、実は私も得度したいと思ってるんだ、とおっしゃった。
一人の方はえっ?お坊さんになるの?って言われた。

これには私の方が面食らった。

なぜかというと私は、小林さんから「得度って一時しのぎの避難所」みたいに考えるといいよ、って言われた記憶があって、
「坊さんになる」とかそういう意識は全くなかったから。

気功の盛先生が、名前は大切。親からもらった名前以外にあと2つぐらい名前をもつといい。
と教室でよく言われているのを聞いていたので、そうか、それなら違う名前を持ってみようかな?
ぐらいにしか得度を考えていなかったから。

得度ってどうしたらできるのか?とか具体的に質問されだした私は、
急に自分が得度のことを何も知らないのに気づいた。

やばい!ちょっと弱気になる。

帰ってネットで調べてみる。
う〜ん、いろいろお金かかりそうだな、とか儀式いろいろあるんだな、とか。

現世に未練たらたらの私みたいな者がなってはまずいのでは?と思う次第で・・・。

型を離れて

しかし、ふとある言葉を思い出した。
松岡正剛が編集学校の生徒に向けてよく放つ言葉を。

「型を守って型に出て、型を破って型へ出て、型を離れて型を生む」

得度、というのは、一度死んで、違う価値観をもつ人として生まれ変わって最初の段階、
まず「型を守って」という段階なのだろう。

そう考えれば、そのはるか先に型を離れて型を生む、という段階があるわけで、そう考えれば気がらくだ。

私は得度することで「型を守り」そしていつか「型を離れて型を生む」ことができるように、なりたい。

こんな変な?!得度者もいたのかと、新たな得度者のイメージを創造したい、
そう思った、修行体験の翌日であった。

(by 知子)