ニュートンは光について、「光りは粒々の集まりから出来ている」と考えていた。
その後ホイヘンスが「光りは粒々じゃなく、波なんじゃないのか?」と言い出す。
そして光りは電磁波という「波」であることが分かった。
モノを拡大してみていくと、粒々の集まりに見える。
世界は分子などの「粒々」と光などの「波」から出来ていると考えられた。
ルイ・ドゥブロイによって「この世界の物質はすべて、『粒子』と『波』の性質を持ち合わせている。」
と分かった。
この二つの性質を持ち合わせる、世界のすべてを構成する物質を
「量子=クォンタム」と呼ぶことにした。
量子が持つ「粒子」と「波」の性質の違いは
「個々の区別が付く」か「個々の区別がつかない」か、ということ。
ボールAとBを壁にぶつけると、ぶつかった後に跳ね返ったボールが、どっちがAでどっちがBかわかる。
「波」Aと「波」Bがぶつかった後には、どこにいったか見分けることはできない。
それは「波は重ね合わせることができるから。」
粒子は同じ場所に一個しか存在できない。
「波」は重ね合わせて存在することが出来る。(竹内薫)
「波」の性質を、華厳経では一即一切重々無尽と説きます。
時間も空間も存在に畳み込まれているというのです。
一粒の米をさして、この中に・・雨も、太陽も、お百姓さんの努力も畳み込まれていると考えています。
だからすべての「モノ」の中に、シンボルとしての大日如来(量子=クォンタム)が
存在していると説くのです。
個々の区別がつかないと言うことを密教では・・・六大喩伽(ろくだいゆが)と説きます。
この時点では、密教は大日如来一元論になるのです。(宗次郎)
量子は「波」と「粒子」の性質を持つが、量子が大量に集まると、量子は「波」としての特性を失い
目に見える「粒子」として存在する。
量子の「波」の性質を肉眼で確認することは出来ない。
可視の世界では「モノ」のみが認識される。
世界は波のように揺らいでいて、すべては「そこに存在するという現象=コト」なのです。
「波」としての特性が大きくなれば、「個」としての概念はなくなっていきます。(竹内薫)
粒子としての世界観から、波動の存在としての世界観を身に着けるには、
意識レベル(抽象度)を上げる必要があります。
自分の存在は、個人であり、家庭人であり、社会人であり、日本人であり、人類であるのです。
そのどの立場に立つのかによって、判断も行動も違ってきます。
上位概念としての自分に近づくことが、人間の完成であり、この人生の目標なのです。(宗次郎)