現代物理学と密教
「モノからコトへ」
粒子から波動へ


現代物理学は科学虚構化(サイエンス・フィクション)している。
それは物理学から、モノと言う概念が次々に消えていくことを示している。

物質に囚われていた社会観は放棄され、新たな科学思想が芽生え始めている。

現代物理学の思想性は、量子重力理論という最前線の研究において、
すべての「モノ」が消え去り、すべては「コト」になるのです。

そこではすべての「非虚構」が崩れ去り、すべては「虚構」になるのです。

(世界が変わる現代物理学・著・ちくま新書より抜粋)

仏教の視点では、唯識において・・すべては認識により創造されていると説き・・・
ユングはその人の信じている物語(神話=仮説)が世界を作っていると考えています。
あなたはどのような物語(神話=仮説)を信じているのでしょう?(宗次郎)


モノ:意味のネットワークの、一つの「交差点」に着目したときに見える世界。

コト:意味のネットワークの、全体的な「つながり」こそが本質であると気付いたときに見える世界。

モノは固定的で狭い思考法であり、コトは流動的で広い思考法である。(竹内薫)

               


華厳経の視点では、世界には網がかかっていて、

その交差点はすべてのもの(世界)を照り映す水晶の玉で出来ている。

その水晶の玉が人の心であり、網を引くことによって、隣の水晶は楽器となり音楽をかなで・・・
帝釈天の世界には音の鳴り止まぬ世界となっているという。

事(竹内先生のモノ=交差点)を個別的具体的な事象、

理(竹内先生のコト=関係性)を普遍的真理とする

理事無礙(りじむげ)法界の世界が繰り広げられているのです。

それは普遍的な理法と個別的な事象とが一体不可分で矛盾なく調和していることをさします。
仏教での真理とは、縁起というネットワークで繋がれている世界観が本質であるということなのです。

同じことを般若心経では、色即是空(形あるものに実体はない)と呼び、
無自性・空ともいうのです。(宗次郎)

光とは何か


ニュートンは光について、「光りは粒々の集まりから出来ている」と考えていた。
その後ホイヘンスが「光りは粒々じゃなく、波なんじゃないのか?」と言い出す。

そして光りは電磁波という「波」であることが分かった。

モノを拡大してみていくと、粒々の集まりに見える。
世界は分子などの「粒々」と光などの「波」から出来ていると考えられた。

ルイ・ドゥブロイによって「この世界の物質はすべて、『粒子』と『波』の性質を持ち合わせている。」
と分かった。

この二つの性質を持ち合わせる、世界のすべてを構成する物質を
「量子=クォンタム」と呼ぶことにした。

量子が持つ「粒子」と「波」の性質の違いは
「個々の区別がつく」か「個々の区別がつかない」か、ということ。

ボールAとBを壁にぶつけると、ぶつかった後に跳ね返ったボールが、どっちがAでどっちがBかわかる。
「波」Aと「波」Bがぶつかった後には、どこにいったか見分けることはできない。
それは「波は重ね合わせることができるから。」

粒子は同じ場所に一個しか存在できない。
「波」は重ね合わせて存在することが出来る。(竹内薫)

「波」の性質を、華厳経では一即一切重々無尽と説きます。
時間も空間も存在に畳み込まれているというのです。

一粒の米をさして、この中に・・雨も、太陽も、お百姓さんの努力も畳み込まれていると考えています。

だからすべての「モノ」の中に、シンボルとしての大日如来(量子=クォンタム)が
存在していると説くのです。

個々の区別がつかないと言うことを密教では・・・六大喩伽(ろくだいゆが)と説きます。
この時点では、密教は大日如来一元論になるのです。(宗次郎)


量子は「波」と「粒子」の性質を持つが、量子が大量に集まると、量子は「波」としての特性を失い
目に見える「粒子」として存在する。

量子の「波」の性質を肉眼で確認することは出来ない。
可視の世界では「モノ」のみが認識される。

世界は波のように揺らいでいて、すべては「そこに存在するという現象=コト」なのです。
「波」としての特性が大きくなれば、「個」としての概念はなくなっていきます。(竹内薫)


粒子としての世界観から、波動の存在としての世界観を身に着けるには、
意識レベル(抽象度)を上げる必要があります。

自分の存在は、個人であり、家庭人であり、社会人であり、日本人であり、人類であるのです。
そのどの立場に立つのかによって、判断も行動も違ってきます。

上位概念としての自分に近づくことが、人間の完成であり、この人生の目標なのです。(宗次郎)

パソコン時代の密教の波動・身体論の物語


身体は意識の波動(意識体)で出来ていて、粗大な波動の部分が肉体です。
意識の身体が肉体の上に重なっていて、感覚器官(眼耳鼻舌身)のすぐ上にエーテル体(マナ識)、
その上にアストラル体(アラヤ識)、その上にコーザル体(アマラ識=神意識)が重なっています。

意識体は「記憶媒体」でこれが輪廻の主体となります。
ハードである肉体が壊れると、この世で体験してきた記憶を、
無線ランでつながっているホストコンピューターにインストールします。

次の再生はホストコンピューターが選択します。
どのハードに移されるかは、前世の行いにより決まります。
これを因果律と呼びます。

情報をインストールする体験を・・・途中で止めて戻ってきた人々は、臨死体験者となります。

そして49日の後に、新しいハード(肉体)を用意され、初期化されて生まれ変わります。

ところが、子供のころに前回に消したはずの情報が残っている人々がいます。
ホストコンピューターから見たら、バグが出たのです。

これを仏教ではカルマ(前世の記憶による思考傾向)と呼びます。
大人になってもこのカルマが消えない人々もいます。(宗次郎)