冥想だけしても覚りは得られない

「冥想だけしても覚りは得られない?」とは最近の私の考え方です。
「えー、ウッソー!!」とお思いになりませんか?
これはどういうことでしょうか?

「まんだらや密教研究所」においでになる方とお話しをしていて、
「上手く冥想すれば・・覚りが開ける」と考えている方がいらっしゃいました。
これは冥想に対する誤解のように思えました。

そこで冥想について考えてみました。

翻訳語としての冥想


明治の初期にMeditation・メディテーション というコトバが入ってきました。
当時の明治政府は、それまでの神仏習合思想から、神道・至上主義に傾いていました。

そのため旧弊打破(古いものを打ち壊そう)の情熱にあふれ、
1968年には神仏分離令を発し、寺院・仏像の破壊や僧侶の還俗などが行われました。

そのような時代背景の中で Meditation というコトバは、冥想として翻訳されました。

冥想は・・広辞苑には「眼を閉じて静かに考えること。現前の境界を忘れて想像をめぐらすこと。」とあります。
しかしMeditationというコトバは、サンスクリット語の「ヨーガ」の英語訳として輸入されたのです。

それが冥想と訳されることにより、それまでの日本文化にあった「覚りを求める歴史」が誤解されてしまいました。

神道は宗教ではないと宣伝した明治政府


明治政府は神道による国民支配を考えていましたから、「神道は宗教ではない」と宣伝し、
組織宗教「仏教・キリスト教など」が宗教であると考えていました。

しかし、お寺の行う除夜の鐘の行事も、神社仏閣で行う初詣の行事も、宗教行事なのです。
東洋の思想・宗教は習俗化し、キリスト教は契約形宗教のため成文化している違いがあるのです。

「なぜ除夜の鐘・初詣に参加するのか?」
心の内側に質問していくうちに、仏教文化や神道文化に辿り着くのです。

たとえば除夜の鐘は108回(煩悩の数)を鳴らします。
身体の周辺にまとわりついた一年の邪気(ネガティブな思い)を波動により祓い去る行事です。

線香の煙を身体につけるのも、同じ意味があるのです。
密教の身体観には、身体の周辺にネガティブな波動が憑くと考えているからです。
粗大な身体が肉体で、微細な身体が肉体の周辺を覆っているのです。

ドニパトロ・ヒーリングもこの考えに基づいて行っています。
そして邪気を祓ったあとで、聖なる空間・・・結界を張った神社の空間で、再生のエネルギーを受け取るのです。

密教思想は言語化しにくいので、それが習俗化して意味が分からなくなってしまったのです。

覚りを得るための手段としての冥想=止観(しかん)


真言密教の修行者のための階梯(修行ステップ)では、塗香という漢方薬をブレンドした香を、手に塗ります。

その時に、「五分法身(ごぶんほっしん)を磨耀(まよう)すと思え、
(かい)・定(じょう)・慧(え)・解脱(げだつ)・解脱智見(げだつちけん)なり」と唱えます。

これが修行の階梯の五段階です。

・戒律を守り

・禅定(冥想)をし集中力を高め、無念無想の状態になります。

・そして自己を解体し、世間の価値観にくんじゅう薫習(プログラミング)されていることを知り=智慧

・世間の価値観を否定(リ・プログラミング)し解脱を求め(往相/おうそう)、

・否定し終わることにより、無分別智(むふんべつち)を獲得し、この世に戻ってくる(環相/げんそう)のです。


それぞれの階梯が、五つに分かれた法身(如来の導きの姿)なのです。
冥想はその第二段階に過ぎません。

これを仏教では止観(シャマター・ヴィパシュナー)という言葉で表します。
止(シャマター)が瞑想で、観(ヴィパシュナー)が智慧に当たります。

止は感覚器官から意識が離れた状態です。
映画マトリックスでは、プラグを抜いた状態でしょう。

観は自分と世界を見つめ、言語によって生起している世界と真実の世界の違いを発見する智慧を得ることです。
すると一度死んだネオのように、エージェントスミスが緑色の線が流れるプログラミング
(自分の心は日々言葉によってプログラミングされていた)だと分かるのです。

冥想(ヨーガ)によって得られるもの


サンスクリット語・ヨーガとは「動物を荷車につなぐこと」から発展し、
「心を一点につなぐ」あるいは「集中する」「神との合一」という意味です。

冥想は「目に見えない奥を探る」ことですが、瞑想の瞑は「死ぬ」意味があり
言葉としてふさわしくありません。

宗教学者エリアーデは、インド思想の根幹を四つに分けて考えています。

(1) カルマ(業)--------- -因縁によっていまがあるということ。

(2) マーヤー(幻想)-------この世が幻想であるということ。

(3) ニルヴァーナ(涅槃)----あの世が真実の世界であるということ。

(4) ヨーガ(冥想)---------冥想法によって獲得された世界観。


映画マトリックスではトーマス・アンダーソンは「何か変だな?」と思い続け、モーフィアスに出会います。
そしてこの世が幻想であることを告げられ、「背中のプラグを抜く・瞑想=臨死体験」をします。

内的世界(あの世)でモーフィアスと会話し、プログラミングされていたことに気付きます。
そして新たなプログラミングをすることで、ネオとして、
新人類(目覚めた人=覚者=超能力者)として覚醒したのです。

このステップが、定・慧・解脱・解脱智見になるのです。

インド思想の根幹をマトリックス風に言うと以下のようになります。

(1) カルマとは、常識人たち(エージェント・スミスたち)からプログラミングされて貶められていた自分の心です。

(2) マーヤーとは、マトリックス(物質至上主義)社会のことです。

(3) ニルヴァーナとは、ザイオン(高次の世界・天国・浄土)があるという真実です。

(4) ヨーガとは、「何か変だなと考え続け・冥想と熟思をする」ことにより真実を発見することです。

冥想は座らなくてもOK


冥想は感覚器官からの情報遮断が目的です。
そのためには気功の立禅(りつぜん)でも良いですし、マントラを大声で唱えていても忘我の境地に至れます。
五体投地を何回も繰り返しているチベットの人々も忘我の境地に入っていることでしょう。
マラソンの人々がランナーズ・ハイになるように、単純な動作の繰り返しが、ハイにさせるようです。

これを日本では三昧(さんまい=サマーディー)と呼んでいました。
三昧とは何かに夢中になりほかのことを忘れる状態です。
このようなときには時間が止まった感覚や、どこからともなく音が聞こえてくるような感覚、
ヴィジョンが見えてくる感覚が訪れることがあります。

私の体験では、太鼓の音と共に30分以上不動真言を唱えていると、太鼓の音が聞こえなくなる時間が訪れます。
そうすると・・どこからともなくさまざまな音や声が聞こえるようになります。

俳人・芭蕉もこの状態になったのです。

  「しずけさや 岩に染み入る セミの声」

セミの声はどんなにうるさいことでしょう。
でもその時に、「しずけさや」という言葉が入るのは・・外部の音ではなく、
内部の感覚に意識が行っている状態なのです。

ヨーガの行者パラマハンサ・ヨガナンダは
「冥想をしているとオームの音が聞こえてくる。行の進んだ行者はそれが声として聞こえる。」と語っています。

釈迦は十二縁起を熟思して覚りを開いた


瞑想をどんなにしても、覚りの境地には至りません。
なぜならば、冥想は覚りの境地を得る前段階だからなのです。

そこに智慧が入ることによって、冥想は完成します。
だからこそ冥想には先生が必要だといわれるのです。

チベットでは熟考、熟思する冥想を用意しています。
禅の問答修業も自己解体の修行法です。 

釈迦の修行の歴史をたどってみましょう。

出家した釈迦は、まずアーラーラ・カーラマ仙のところに行き、
「無所有処定(むしょゆう・じょじょう)」の三昧に入りましたが満足せず、
ウッダカ・ラーマプッタ仙の所に行き、「悲想非非想処定(ひそう・ひひそう・じょうしょ)」の三昧に入りました。

これらの修行がいわゆる冥想修行です。

でも、冥想から醒めると元の意識に戻ってしまうことに気付いた釈迦は、苦行の道に入ることを決意します。
何度もの止息と断食を試みますが満足しません。

そこで熟思した釈迦は、中道の覚りを得て・・・断食を中止し、
ちょうど通りかかった村娘スジャータの供養する「乳かゆ」を食べ体力を回復します。

そしてゆったりとした気持ちで菩提樹の下で冥想を始め、智慧の欠如に気付きます。
プラトンの言う「無知の知」に気付き、十二縁起を観察し始めました。
そして順に、逆に思念し始めました。

このとき悪魔が出現し、釈迦にささやく場面があります。
「悪魔の声」とは常識人が過去に彼にささやいた意見なのです。

内的思考を繰り返しているうちに、その内的場面に、多くの過去の刷り込まれた言葉が聞こえてきます。

十二縁起とは、「自分の考えていることは、誰かが言ったこと」であり、
言われたコトバを解体することにより、真の自分を発見するのです。

十二縁起とは「無明 行 識 名色 六処 触 受 愛 取 有 生 老死 」を言います。

十二縁起をお読みください。

三昧に入りやすい冥想法


私の最近の冥想法は、二段階に分かれています。

最初に読経やマントラ冥想をします。
釈杖やドニパトロ・太鼓で音を加えながら、声を出します。
30分以上唱え続けるとマントラ・ハイになってきます。
不動明王に祈願をするのです。

それから、静かに意識を集中する冥想にはいると、
呼吸と共に氣エネルギーが出入りする感覚がつかめます。

動から静への冥想は、時間のない現代人にぴったりの冥想法です。

その後、真実を観察するテーマを考えてみましょう。
これは先生について指導を受ける必要があるかもしれません。

「おのれ自身を知れ!」「世界とは何か?」などを考えることにより、
真実の智慧に触れることができるでしょう。
お試しください。