経済から心へ

ラダック・懐かしい未来より
 


48歳の時からインド・チベット・ネパールを歩き回った。そろそろ20年。

なぜ私は、こんなにチベットなどの僻地に興味を持つのだろう?

25歳から27歳まで、ヨーロッパに滞在して、所得格差を利与して、欧州は豊かになっていると思えた。
東ヨーロッパやアフリカ、中国の人々が低所得労働者として存在していた。

チベット密教地域(チベット・ラダック・ブータン)を旅行しても、まだ西洋文化の侵入は少ない。
ところがネパールになると、多くの人々が英語を話し、民族文化の興味よりも、西洋・日本の商品に興味がある。

国を開くと、外国資本が参入し、自国の文化が壊滅し、自尊心を失う。
そう考えたブータン国王は、鎖国を開始した。

そして、GNP(Gross National Prodacts=国民総生産)よりもGNH(Gross National Happyness=国民総幸福)と世界に宣言した。

資本主義は資本(金)を求め、過剰な労働を強いる。
だから開国すると、貧しくなるのは目に見えている。



インド北西部にあるラダックは、「NHKチベット死者の書」で輪廻転生思想が描かれたチベット仏教の聖地だ。
このDVDはジブリの宮崎駿さんが「映画もののけ姫」の制作時、毎日見ていたそうだ。

         

本「懐かしい未来」の著者、ヘレナ・ノーバーグ=ホッジ女史は16年間のラダック滞在を通して、
ここに私たちの失った、懐かしい「過去」を見て、そこから学べば、私たちは「未来」を変えられると確信している。


          


いま社会はますます生きづらくなっている。
その時代を変えられるかどうかは、若者がどう生きるかにかかわってくる。

政治というものが一部の人にだけしか興味を持たれなくなって久しい。

その時に、チベット仏教の持っている「経済だけではなく、幸せを求める思想」が、参考になるだろう。


  ラダック・小チベット 1
<空の思想>
 

仏教の中心原理の一つは、空の哲学にある。

西洋人である私にはこの意味が分からなかったが、
学者であるタシ・ラプギャスと話をしているうちに、理解できたように思える。

例えば「木」というと、ほかのものと区別した木を考えがちだ。

あるレベルではその通りだが、もっと重要なレベルでは、木は独立した存在ではなく、関係性の網の中に溶け込んでしまう。

・・・・結局木を考えると、宇宙のあらゆるものが木を木として存在させている。
木を他と切り離して考えることはできない。

これがものごとについて「空」という時の意味であり、何物も独立した存在ではないということだ。



<宗峰の解説>

言葉での認識では「木」と発言することにより、独立して存在する「木」があるように思える。
これは言葉での認識世界(言語概念世界=虚妄世界)で生起しているだけである。

真実は関係性によって成り立ち、すべてのものはつながっている。
(因縁・生起=縁起の理法=真如世界)独立して存在するものはない。

私という存在も同様である。すべてのものとつながっている。
(詳しくは、まんだらやTVをご覧ください)




仏教は存在を否定したり、厭世主義を勧めるものではない。
逆にひとたび宇宙の本質を理解するならば、現象界の移ろいゆく流れに動じない、永遠の幸福を得るであろうと教えている。

私たちの無知、つまり感覚や概念を通して世界を知覚することが、
目の前にある何でもない日常の姿を超えて、物事を見ることを妨げているのだ。

こうした無知なものの見方で物事をとらえる限り、私たちは「サンサーラ:穢土」存在の流転の罠にはまってしまう。

世界の存在を否定するのではなく、世界の認識の仕方を改めるように、私たちは求められているのである。

私たちが感覚によって物事を認識する限り、物事は存在している。
私たちは肉体を有し、呼吸するために空気を必要とする。感覚によって認識した世界を放棄するのではなく、
別の観点からとらえることを、私たちは要求されているのである。


<宗峰の解説>

言葉による認識が、物事をバラバラであるという世界観に導く。
般若心経で「無・眼耳鼻舌身意=感覚器官」「無・色声香味触法=感覚対象」というのは、感覚器官の認識から離れよという教えになる。
その後の洞察により万物は一如(ワンネス)であるという悟りを得られるのだ。


ブッダに喜んでいただくには、
生きとし生けるものを喜ばす、
この他になし!

「ダライ・ラマは、自分の真の宗教は思いやり(慈悲)だとおっしゃられた。
祈りを捧げるものたちを見なさい。彼らは他者への思いやりを大切にしている。」

仏教の教えでは、慈悲の心がいわゆる悟りへ導く道とされる。

詩人のミラレパは「空の概念が慈悲の心を育む」と語った。

個々の存在の境界がなくなるとき、あなたと私は全く分離した存在ではなく、同じ個のそれぞれの側面となる。



  ラダック・小チベット 2
<儀礼>
 


儀式ではなく、体解していること

「無知が続く限り、儀礼が必要である」と、あるときスタクナ寺院の僧侶の長が言ったことがある。

「それはあるレベルまで精神の発達が確かになれば、いらなくなる梯子だ。」という。


ラダックでは、儀式や儀礼が豊かに組み立てられており、宗教的な実践の重要な部分をなしているが、
思ったほど仏教の教えの中心にはなっていない。

私にとってラダックの仏教が最も深遠に映るのは、素朴な農民から深く学を積んだ僧までが、
日常の端々で見せる彼らの価値観と態度である。

ラダックの人たちの生、そして死に対する態度は、
無常(万物は変化する)に対する直観的な理解と、その結果としての執着心のなさとに基づいているように思われる。

死でさえも、私たちよりもたやすく受け入れてしまう。

ラダックに来て二年目、親しくしていた友達が生後二か月の子どもを失った。
その後初めて会ったとき、彼女のショックは私の思っていたほどではなかった。

輪廻転生を信じている彼女にとっては、死は、私たち西洋人にとっての終末という感覚とは違う意味を持っていた。


ラダックの人々の態度は瞑想からの影響を受けているような気がする。

僧侶の社会以外では深い瞑想が実践されることはないにせよ、人々は半ば瞑想の状態で時を過ごす。
少し会話したその呼吸で「オン・マニ・パドメ・フン」と繰り返している。

瞑想の間は物事を全体、あるいはパターンとしてとらえる知覚の働きがあるのかもしれない。
こうした世界のとらえ方は、仏教の素養のほとんどない人とでさえ持っている特徴である。


  ラダック・小チベット 3  


僧侶なんて、誰が必要としてるんだ?~~1984年ラダックの青年の発言

ラダックの開発を見ていると、西洋流の技術開発が「副作用」を持って現れていることがわかる。

レーの製粉工場では、昔からある水車よりも何倍ものスピードで製粉する。
しかし、農民はお金を払わなければならなくなった。
そのうえ、製粉の速度が増すと、栄養価が下がり、エンジンからは有害な煙を出すことになる。

大地を耕す犂(すき)には地元の木材が使われ、刃先は村の鍛冶屋で打たれ、ヤクやゾー(牛)は高地の野草で飼育された。

老賢人であるタシは「家畜は自分の友達になり、関係が深まるが、
機械は死んでいるので、自分が機械のようになり、死んだようになってしまう。」と語る。

変わりゆくラダックが教えてくれる教訓は、近代世界の機械が時間を節約する一方で、
その新しい生活様式は、私たちの時間を奪い取ってしまうということだ。


昔、ソナムは、レーで見かけた観光客のことを村人に話した。

「何とも忙しそうなんだ。」
「じっとしていることが全くなく、ただ、パチリ、パチリとカメラのシャッターを押している。」

そして時々「はい、ボールペンをあげましょう。」といって渡す。
彼は台所を走って回り、村の人々を笑わせていた。「なんで、一体そんなに急ぐ必要があるんだい?」

ラマ僧に代表される世界観と、エンジニアに代表される世界観とは大きく異なっている。
昔ながらの考えは、あらゆる生命の調和と依存関係を強調する世界観を根本としている。

新しい科学の世界観は、それらの分離を強調しており、我々人間は他の生物の外側に立ち、離れて存在すると語っているようである。

物をどんどん分割し、孤立した断片を調べれば良いという考え方である。

ラマ僧からエンジニアへという世界観の変化は、すべての生き物に対して憐れみと共感を持って接するという倫理観から、
倫理基盤を持たない「客観性」へと移りゆくさまを表している。


  ラダック・小チベット 4
<開発のごまかし>
 


開発の波がラダックに押し寄せて16年、貧富の差は増大し、女性は自信と力を失った。
失業とインフレが出現し、犯罪が増加し、人口は急増した。
家族や共同体の絆が緩み、自給自足から外部の世界に依存する経済に変化し、人々は土地から切り離された。

ラダックやブータンの状況は人々の幸福を金銭だけで測ることの欠陥を示している。

いずれの国もほかの第三世界と比べて、生活水準はとても高い。
基本的に必要なものを賄い、芸術や美しい音楽をたしなみ、友人や家族と過ごす時間は、西洋人よりもはるかに多い。

だが世界銀行は、ブータンが世界の最貧国の一つであると言っている。
GNP(国民総生産)が、ほとんどゼロだから国際経済秩序の最貧国に位置づけられる。

これは要するに、ニューヨークのホームレスの人々と、ブータンやラダックの人々とそんなに差はないということである。

どちらも確かに所得はゼロだが、統計の背後にある現実には雲泥の差がある。

辺境の地の自給経済であれ、工業世界の中心部であれ、
GNPを社会的な福祉の中心とみなす国民経済の体系は、明らかに何かが間違っている。

自分の庭で作ったジャガイモを食べるより、ほかの土地で作られたジャガイモを食べるほうが経済にとっては好ましい?

このような消費の在り方は、輸送の増加、化石燃料の増加、添加物及び合成保存料の多用、生産者と消費者の分離をもたらす。
だが、GNPが増加する。

世界のいたるところで、小規模農民の多くが開発の過程によって排除され、瀬戸際に追いやられている。
資本集約的でエネルギー多用型の「アグリビジネス」に注目が集まっている。

多国籍企業と巨大石油化学会社は、第三世界から種子を取り上げ、新しい種子の遺伝子情報をもとに作られた品種は、
化学肥料や農薬とセットになっていて、販売される。
新品種は一代限りなので、農民は永遠に彼らに依存しなければならなくなる。

ラダックで深刻化しつつある問題は、世界中でおこっていることにしばらくして私は気が付いた。

地球経済は、さらに多くの資源開発、技術革新、さらに多くの利益に向かって容赦なく突き進む。
途上国の人々も、先進国の人々も、貨幣経済と精神的圧力に押されて、盲目の消費に向かっている。

「人類の向上のための経済成長?」

世界中の開発は、もはや自動操縦で進んでいる。

このイメージには、開発の副作用、汚染、精神的ストレス、麻薬中毒、ホームレスなどは含まれていない。
人々は開発というメダルの片側だけを見させられて、近代化に躍起になっている。