修験道賛歌

『闇の修験道』関裕二(KKベストセラーズ)
より抜粋


日本人は無宗教といわれて久しい。
そもそも我々の欠点は、深層に深い宗教性を持っていながら、その自覚を怠っている上、
宗教というコトバに深い嫌悪感さえ感じてしまうことである。
その特性はここ数十年の現象であって、かっての日本がそうであったわけではない。

どうして日本人は宗教を「棄てたつもり」になっているのであろうか?

天皇を神と祀り上げたかつての国家神道に対する反省と、
戦勝国アメリカに対する憧憬がないまぜになって、
戦後の日本は、合理主義・民主主義を絶対の真理と丸呑みしたのだ。

不合理なもの、科学で証明できないもの、日本的なものは野蛮とみなされ、
ことごとく排除されてきたのである。

しかし、この合理性こそが曲者だった。
アメリカの合理性は、キリスト教という裏付けにもとづいたものであったが、
日本人は合理性のみを絶対視し、ついには「合理性=新しい宗教」として取り入れてしまった。


ところがこのまま西欧社会の掲げる合理主義・物質文明を続けていくと、
地球の未来さえ危ぶまれるようになってきた。

それではどうすればいいのか?

合理主義・科学万能という宗教観を捨て去り、
かっての日本人の心を取りもどさなければならないのだ。
神道は戦前の国家神道に対する拒否反応があって、容易にここには戻れまい。

しかし仏教も近世の檀家制度の悪弊で、腐敗しきっている。
葬式仏教のどこを信仰しろというのか?
戒名で人を救うことは出来ない。

ここで修験道という、忘れ去られた教えに気付かされるのである。
修験道といえば、山伏や天狗を思い浮かべることだろう。
修験道は道教・陰陽道の一種であって、
純粋な日本の宗教ではないと思われる方がいるかもしれない。

しかしそれこそ大いなる誤解であって、
仮に縄文以来続いた日本の伝統というものがあるとするならば、
それは神道にではなく、修験道の中にこそ見出しうるのである。

修験道は、神の座を追い落とされた日本固有の神々が、
天狗や鬼となって「反骨の宗教観」をつくり、その他ありとあらゆる宗教を取り込むことで、
呪験力を獲得し、民衆の支持を得ていったのである。

鎌倉仏教を初め、明治時代に弾圧された新興宗教の多くが、修験道の変形だったのだから、
その太古の底力を改めて思い知らされる。

『闇の修験道』関裕二(KKベストセラーズ)



修験道は反骨の宗教であり、「役の行者」とその仲間は、権力者・藤原氏の対抗勢力であった。
空海も31歳まで山林修行者として、修験道を実践していた。
大和吉野の金峰山や四国阿波の大滝の嶽によじ登り、室戸岬で勤念したという。

この修験道の、多くの神々を飲み込む融通性こそ「まんだらの思想」であり、
「まず飛び込め」の実践重視の密教思想に繋がっているのだ。(小林)