コトバの外を・・把握する

デカルトは「我思うゆえに我あり」と語った。

この言葉が現代社会の矛盾の元となっている。

仏教は「我とは何か?」を求め続けてきた思考法だ。
我と・・思う・・がなぜ結びつくのだろう?

我は肉体・・思うは精神。
この二つを別のものと想定(仮定)して・・近代は成立してきた。

人格としての個の成立は・・言語概念世界ではありうるが・・真実の世界では・・
そのようなことはありえない。

人体は外の環境によって生起するが・・飲む前のコップの水を・・自分とは呼ばない。
しかし飲んでしまえば「自分」になる。
そして・・出してしまえば「自分」ではなくなる。

体重の70パーセントが・・水で出来ている存在は・・水なのか・・自分なのか?

環境の循環の中に・・いま偶然・・自分が存在する。

吐き出した自分(水)は・・川になり・・・海になり・・雲になり・・雨になり・・水道局の貯水池に戻り・・・
水道として・・また自分の中に入る・・大きな循環の一時的存在である自分。

コトバはこの循環を切ってしまう働きがある。

言語概念世界を作って・・自分が存在すると思ってしまう。


多くの自分でないもので構成された存在・・・それが本当の自分の姿。
仏教ではこれを・・縁起により生起したもの・・と考える。そこに実体はない。

コトバが幻想を作るから、コトバの外を探さなければならない。

認識は

1・感覚認識

2・言語認識

3・象徴認識

4・直観認識

の順に認識できるようになる。

言語認識(コトバの外)の外を知ろうとするために・・シンボルが重要になる。
手の動作・・印はこのために使われる。

宝珠・蓮の華・金剛・・・地水火風空・・眼耳鼻舌身・意識・未那識・阿頼耶識・アンマラ識・・
指がそれぞれを象徴している。

これらの学びの後に、錬金術、カバラ、タロットなどの象徴学を学ぶと・・
古代の叡智が実感として理解できるようになる。

直観(チャネリング)を得なくても、真実が観えてくる。

古代の人々の叡智(グノーシス)を得ることが出来るようになる。


まずは印と真言を唱えてみてはどうだろうか?