無明と光明

 「私たちは魔法に掛けられている。」

 これを仏教用語で無明と言います。

 その魔法は親の魔法、学校の魔法、社会の魔法、国の魔法、習慣性の魔法などです。
 魔法にかけられると、それが真実であると思ってしまいます。

 その魔法から抜け出すには、あなたが魔法使いや魔女にならなければ,
 魔法にかけられているのが見えてきません。

 無明の反対語は光明であり、私たちは智慧という光の存在であるということです。

 無明とは光が隠されているということです。
 無明と闇は違います。
 闇は、光と闇の二元論になり西洋的価値観となります。

 無明と光明は非二元論であり、仏教は非二元論なのです。

 西洋社会は二元論により発展してきました。

 デカルトが「我思うゆえに我あり」と唱えたとき、我「エゴ」が発生しました。
 宇宙と我の関係は切り離されました。

 分析的思考は単純な思考方法であり、0・1・0・1と考えるコンピュータの思考法です。
 この考えは全体性を考える思考から離れてしまいがちです。

 仏教では我とは「梵我一如」であり、自分自身はすべての環境とつながっていると考えます。
 身体外の空気や水はいつか自分となります。
 我は宇宙とつながっています。

 科学ではこれを開放系といいます。
 身体は閉鎖系ではありません。
 成長するということは、外部のものと循環しているということです。

 太陽の光なしには、月の引力なしには人は存在できません。
 すべては一つなのです。

 これを仏教用語でまたは空性といいます。