光がどのように見えているのかということを考えたとき、形而上学的な意味で、この世界の本質が見えてくる。
夜空を見上げたときに、満天の星が一瞬に目の中に飛び込んでくる。
これはどのような仕組みで見えているのだろうか。
まず考えられるのは、海の波のように、星から出てきた光が連続的な波として伝わってきて
我々の眼まで届いているという仕組みである。
しかしこんな単純な仕組みでは、我々は何億光年も離れた星の光を見ることは出来ないのは明らかである。
星から出た光は、広大な宇宙空間に満遍なく広がってしまうので、
我々の眼に届くころには、僅かなエネルギーになってしまっているはずである。
そんな僅かなエネルギーの光を夜空を見上げたその瞬間に知覚できるとは到底考えられない。
では、アインシュタインが言ったように、ゴルフボールのような粒子として光が飛んできて、
それが眼の中に飛び込んできているのだろうか。
一見この仕組みなら夜空を見上げたその瞬間に星が見えることを説明できそうだが、
あらゆる場所にいる人が全員一瞬で見えることを説明できない。
例えば、関東地方に満員電車のように人をぎっしり詰め込んで、号令の元、皆が一斉に夜空を見上げたとしよう。
この場合、詰め込まれた全員が夜空の満天の星を見ることが出来る。
つまり、例えば北極星から飛び出してきた光の粒が、関東地方にぎっしりと詰め込まれている全員の左右の眼の中に、
もれなく飛び込むことになるのだが、本当にこんなことは可能だろうか。
ピストルから発射された弾は、撃つときの手元の角度がわずかにぶれただけで、
何十メートルも離れた標的の上では何十センチもずれることになる。
この標的上のずれは、遠ければ遠いほど、ずれ幅も大きくなる。
何億光年も離れた星から発射された光の粒は、地球上に届くまでの間に、かなり拡散するであろうから、
もし光が粒子であるのなら、ある人の眼には飛び込むが、その隣の人には飛び込まず、
何人か離れた人には飛び込むといったことが考えられ、全員が見えるということが怪しくなる。
現代科学ではこういった光を見るという単純な現象についても、
実はしっかりと説明されていないのである。
それでは、本当はいったいどのような仕組みで見えているのだろうか。
つまり、関東地方に詰め込まれた「全員」が「一瞬」で見えるためには、どういう仕組みであれば可能かということである。
この答えは、光のエネルギーの式の中に隠れている。その数式のエッセンスは次のようになる。
星から発せられたある光は、伝播波に乗って、そこを中心に球面上に広がってゆく。
つまり光源から見た場合、あらゆる光源から球面波状の光の波が出てゆく。
我々の眼には、あらゆる光源からやってきた光の波が球面波としてあらゆる方向から入ってくる。
観測者から見た場合、全空間そして全時間の光源の光が、
観測者のいる一点にあらゆる方向から、そしてあらゆる時刻から集まってきて、
その一点に包み込まれるということが起こっているのである。
そしてあらゆる光源とあらゆる観測者との間においてこの包み込みが起こっているのである。
このように全空間、全時間の光の情報が、一点に包み込まれているからこそ、
我々には、広大な空間の満天の星が一瞬で見えるのであり、全員に見えるのである。
さらに言えば、この光を見る仕組みは、レンズの例で示されるような光源と観測者との間の一対一の対応関係ではもはやなく、
全空間、全時間が一点に集約される、無限次元のマトリックス変換、つまり多対一の対応関係で起こっている事象なのである。
そしてこの無限次元のマトリックスの役目をしているのが、球面波状に広がる波動方程式の伝播関数(グリーン関数)なのである。
さらに、この球面状の波を実態のある波であるとすると、観測することによって、この波は、
観測されたその一点でのみ大きな値を持ち他の点では値が0となる形(デルタ関数という)に変わることが出来る。
これは一見粒子のように見える。
つまりこの宇宙の実態を波であると考えれば、波束の収縮も説明することが出来る。
この世界は、西洋的自然観が言っているような、粒子という「部分」が集まって「全体」を構成しているのではけっしてなく、
波という「全体性」がまず先にあって、そこから粒子性という「部分」が顕現しているのである。
キーワードは、「無限次元マトリックスによる多対一の変換」、「全空間、全時間の一点、一瞬への包み込み」、
「実態としての波」、「観測による波の収縮」、「波の収縮による粒子性の顕現」、
そして「これらの現象があらゆる時空点の間の関係において生起している事」である。
これは、仏教、とりわけ華厳経の中で述べられている世界観と驚くほど酷似している。
華厳経で言うところの、「一即多(あるいは一即一切)」、「毛穴の中に世界を、一瞬の中に永遠を見よ」、「実在としての心」、
「あらゆる世界、境界、一切の存在を現出・創造するのが心」、「唯識」、「重々無尽」などのキーワードと対応する。
華厳経では、万有は縁(条件)によって生じる、つまり一切のものが関係の上に存在している事実を凝視し、
あらゆるものは重々無尽に関係しあって、共存共栄、美しい調和のとれた世界に気付かねばならないという。
さらに華厳経は、一切は心の変現であって、心はあらゆるものの根源であり、真の実在であると続ける。
そして、過去から現在未来へ、その三世が夫々に過去現在未来の三世を抱きかかえて流れ続く永遠が、
実は今、この現在に収まっているという十世も、四方八方上下と無限に展がる十方も、いまここにいる私の心に掌握されている、
と力説する。
タゴールを訪れたアインシュタインの心境はいかなるものだったのか。
今となっては想像するより他に手はないが、西洋という環境で生まれ育った彼は、
自然の絶対的客観性という当時の「常識」と、自然科学者としての直感が見てしまった「本質」との狭間で、
その戸惑いをタゴールにぶつけ、東洋思想の中になんらかの答えを見つけ出そうとしていたのかもしれない。
量子力学は、自然科学にとって大きなパラダイムシフトだった。
そしてそれは世界観の本質にかなり近づいたものだった。
ただその解釈において、還元主義的な西洋社会の常識が壁となって、西洋人の思想が、本質についていけなかっただけなのだ。
量子力学の創始者たちは、そろって晩年になると東洋思想に惹かれている。
不確定性原理のハイゼンベルグも、「現代物理学ではもはや世界は物体ではなく関連であり、
それが現象のなかで最も重要な要素である。・・・このように、世界は複雑な出来事の織物という姿を呈する。」と言っている。
そして、アインシュタインさえも、「それゆえ物質は、場がきわめて緊密な空間の領域によって構成されているものと
みることができよう。・・・新しい物理学では、場も物質もというわけにはいかない。場が唯一のリアリティーなのだ。」と、
物質が、根源的な実在の一時的な姿にすぎないとみなす考えに至っている。
非科学的であるという理由で、現象が否定されてしまうことがよくあるが、こう考えて来ると、
科学的であるということ(西洋的世界観といっても良い)にいったいどれほどの信憑性があるのか。
非科学的であるといっている人の科学レベルがたとえ量子力学のレベルであったとしても・・・。
(by : 岸ヨシオ)