西洋的自然科学観の否定  岸ヨシオ
1.唯識的思考法


もし、ブッシュに父親に対するトラウマがなかったら、フセインは今も安穏と暮らしていることだろう。
ブッシュの意識が、フセインの人生を、バクダッドの街を、そしてイラクの国を、すっかり変えてしまった。

人間の意識の方向が少し違っただけで、現象は時間と空間を超えて大きく変わってしまう。
そしてその意識が誤ったものであれば、顕現する現象も目の当てられないものとなってしまう。

「そこに月が存在するから我々は月を見るのか、あるいは我々が月を見るからそこに月が存在するのか」

これは、相対性理論で有名なアインシュタインが、インドの大詩人タゴールを訪れた際に交わされた問答である。

時は1930年、量子力学が物理学会に台頭する中で、ひとり敢然と量子力学に反旗を翻していたアインシュタインは、
自然には絶対的な客観性があって、そこに観測者がいようといまいと観測者とは独立してこの自然は存在する
と考えていた。

量子力学以前のニュートン力学の時代までは、自然科学の対象の中に我々観測者は登場しない。
我々はあくまでも自然科学を外から見ている傍観者に過ぎなかった。

1900年代初頭に量子力学が提唱されるようになって、初めて自然科学という舞台の上に、観測者も登場することになる。
「観測者が見るまで、電子や光子がどこにいるのかわからない。存在確率だけが予測可能である。」と量子力学は言う。

あの偉大なアインシュタインでさえ、自然の絶対的な客観性を疑うことが出来なかったのだ。

これは、西洋的科学観が、何百年もの間、物に囚われてきたことを表わす例であり、
言い方を変えれば、物に囚われてきた西洋人たちの意識が作り上げてしまった誤った自然観なのである。
そしてその自然観に基づく人間の行動こそ、誤った意識が作り上げた目の当てられない現象なのだ。

2.科学的思考法


自然科学はこれまで何世紀もの間、物を分割して行った先の究極の粒子を探そうと努力してきた。

分子や原子が見つかり、さらに分割してゆくと原子核と電子が見つかり、原子核を分割すると陽子と中性子が見つかった。
最近ではさらにクォークなどの素粒子が見つかっている。
西洋科学はどこまで物を刻んでゆけば気が済むのか?

量子力学が生まれて、それまで粒子と思われていた電子や素粒子にも波動性があることが初めて発見され、
粒子と波動の二重性がやっとクローズアップされてきたが、
唯物思考が強い西洋科学は、いつまでたっても粒子性を捨てきれないでいる。

その証拠に、西洋科学は、電子や素粒子の波動性を説明するために、確率の波を持ち出さなければならなくなってしまった。
つまり波の強めあうところには粒子が行きやすく、波の弱めあうところには粒子が到達しにくいとする
量子力学のコペンハーゲン解釈である。

このニールス・ボーアに代表されるコペンハーゲン解釈において波には実体がなく、あくまでも実態は粒子なのである。
粒子が観測されるまでは、粒子がどこにあるのかは問わないのである。
ただあるのは実体のない確率の波で、その波は空間にぼやっと広がっている。
そして観測という行為を行った瞬間に、その確率の波が一点に収縮し、その場所に粒子が現れると考えるのである。
いわゆる波束の収縮である。

なぜ波束の収縮が起こるのかは、コペンハーゲン解釈ではいまだに説明がつかないにもかかわらず、
粒子性にこだわっている。(ただ、自然科学の中に観測者が役者として登場してきたことは、
ニュートンの時代に比べれば大きな進歩ではある。ニュートンの時代は観測者がいようといまいと
自然は客観的に存在していると考えてしまっていたのだから。)

コペンハーゲン解釈において、確率の波とはいったい何なのか、なぜ波束の収縮が起こるのかは、
問うてはいけない事になっている。
こう解釈することで、実験結果がよく説明できるというだけのことなのだ。

この段階で、もはや量子力学には、形而上学的魅力は全くない。
実験結果を説明するための道具と化し、自然の神秘に一向に近づけてくれない。

なぜ、波動性こそ本質なのだと彼らは言えないのだろうか?

また量子力学の有名な原理に、ハイゼンベルグの「不確定性原理」というものがある。
これは、粒子の位置と速度を同時に正確に測定することは出来ない、というものであり、
粒子の位置を正確に測ろうとすると、速度があいまいになり、
逆に粒子の速度を正確に測定しようとするとどこにあるのか分からなくなるというものである。

ここでもハイゼンベルグは粒子性にこだわっているが、不確定性原理こそ実は波の性質なのである。
「位置」は、「波が局在している場所」に相当し、「速度」は、「単位長さあたりの波の数(波数という)」に対応する。

いろいろな波数の波を混ぜると、非常にシャープな局在した波になり、混ぜ方を減らしてゆくと波は裾野を広げてゆく。
そしてある波数の波だけにすると、一面に拡がった波になる。

いろいろ波数の波を混ぜるという事は、速度が定まらないことを意味し、
ある波数の波とは速度が一つに決まっていることを意味する。
局在した波とは位置がしっかり定まっている事を意味し、
拡がった波とは位置がはっきりしない事を意味する。

自然の実態が波だからこそ、不確定性原理が成り立つのである。

西洋科学は、どうしてここまで粒子性にこだわるのか?
どうして、宇宙の実態は「実は波である」と思考を転換することが出来ないのであろうか?

それは、西洋的思考においては、物質への執着が強く、そのことが世界観にまで影響しているからである。
あくまでもこの世界の構成要素は粒子であり、それが集まって物が出来ていると考えることしか彼らには出来ないのである。

それまで波であると考えられていた光に対してさえも、アインシュタインは1905年に光量子仮説を持ち出し、
光さえも粒子にしてしまった。

3.華厳経的思考法


光がどのように見えているのかということを考えたとき、形而上学的な意味で、この世界の本質が見えてくる。

夜空を見上げたときに、満天の星が一瞬に目の中に飛び込んでくる。
これはどのような仕組みで見えているのだろうか。

まず考えられるのは、海の波のように、星から出てきた光が連続的な波として伝わってきて
我々の眼まで届いているという仕組みである。

しかしこんな単純な仕組みでは、我々は何億光年も離れた星の光を見ることは出来ないのは明らかである。
星から出た光は、広大な宇宙空間に満遍なく広がってしまうので、
我々の眼に届くころには、僅かなエネルギーになってしまっているはずである。

そんな僅かなエネルギーの光を夜空を見上げたその瞬間に知覚できるとは到底考えられない。

では、アインシュタインが言ったように、ゴルフボールのような粒子として光が飛んできて、
それが眼の中に飛び込んできているのだろうか。

一見この仕組みなら夜空を見上げたその瞬間に星が見えることを説明できそうだが、
あらゆる場所にいる人が全員一瞬で見えることを説明できない。

例えば、関東地方に満員電車のように人をぎっしり詰め込んで、号令の元、皆が一斉に夜空を見上げたとしよう。
この場合、詰め込まれた全員が夜空の満天の星を見ることが出来る。
つまり、例えば北極星から飛び出してきた光の粒が、関東地方にぎっしりと詰め込まれている全員の左右の眼の中に、
もれなく飛び込むことになるのだが、本当にこんなことは可能だろうか。

ピストルから発射された弾は、撃つときの手元の角度がわずかにぶれただけで、
何十メートルも離れた標的の上では何十センチもずれることになる。
この標的上のずれは、遠ければ遠いほど、ずれ幅も大きくなる。

何億光年も離れた星から発射された光の粒は、地球上に届くまでの間に、かなり拡散するであろうから、
もし光が粒子であるのなら、ある人の眼には飛び込むが、その隣の人には飛び込まず、
何人か離れた人には飛び込むといったことが考えられ、全員が見えるということが怪しくなる。

現代科学ではこういった光を見るという単純な現象についても、
実はしっかりと説明されていないのである。
それでは、本当はいったいどのような仕組みで見えているのだろうか。
つまり、関東地方に詰め込まれた「全員」が「一瞬」で見えるためには、どういう仕組みであれば可能かということである。

この答えは、光のエネルギーの式の中に隠れている。その数式のエッセンスは次のようになる。
星から発せられたある光は、伝播波に乗って、そこを中心に球面上に広がってゆく。
つまり光源から見た場合、あらゆる光源から球面波状の光の波が出てゆく。
我々の眼には、あらゆる光源からやってきた光の波が球面波としてあらゆる方向から入ってくる。

観測者から見た場合、全空間そして全時間の光源の光が、
観測者のいる一点にあらゆる方向から、そしてあらゆる時刻から集まってきて、
その一点に包み込まれるということが起こっているのである。

そしてあらゆる光源とあらゆる観測者との間においてこの包み込みが起こっているのである。

このように全空間、全時間の光の情報が、一点に包み込まれているからこそ、
我々には、広大な空間の満天の星が一瞬で見えるのであり、全員に見えるのである。

さらに言えば、この光を見る仕組みは、レンズの例で示されるような光源と観測者との間の一対一の対応関係ではもはやなく、
全空間、全時間が一点に集約される、無限次元のマトリックス変換、つまり多対一の対応関係で起こっている事象なのである。
そしてこの無限次元のマトリックスの役目をしているのが、球面波状に広がる波動方程式の伝播関数(グリーン関数)なのである。

さらに、この球面状の波を実態のある波であるとすると、観測することによって、この波は、
観測されたその一点でのみ大きな値を持ち他の点では値が0となる形(デルタ関数という)に変わることが出来る。

これは一見粒子のように見える。
つまりこの宇宙の実態を波であると考えれば、波束の収縮も説明することが出来る。

この世界は、西洋的自然観が言っているような、粒子という「部分」が集まって「全体」を構成しているのではけっしてなく、
波という「全体性」がまず先にあって、そこから粒子性という「部分」が顕現しているのである。

キーワードは、「無限次元マトリックスによる多対一の変換」、「全空間、全時間の一点、一瞬への包み込み」、
「実態としての波」、「観測による波の収縮」、「波の収縮による粒子性の顕現」、
そして「これらの現象があらゆる時空点の間の関係において生起している事」である。

これは、仏教、とりわけ華厳経の中で述べられている世界観と驚くほど酷似している。

華厳経で言うところの、「一即多(あるいは一即一切)」、「毛穴の中に世界を、一瞬の中に永遠を見よ」、「実在としての心」、
「あらゆる世界、境界、一切の存在を現出・創造するのが心」、「唯識」、「重々無尽」などのキーワードと対応する。

華厳経では、万有は縁(条件)によって生じる、つまり一切のものが関係の上に存在している事実を凝視し、
あらゆるものは重々無尽に関係しあって、共存共栄、美しい調和のとれた世界に気付かねばならないという。
さらに華厳経は、一切は心の変現であって、心はあらゆるものの根源であり、真の実在であると続ける。

そして、過去から現在未来へ、その三世が夫々に過去現在未来の三世を抱きかかえて流れ続く永遠が、
実は今、この現在に収まっているという十世も、四方八方上下と無限に展がる十方も、いまここにいる私の心に掌握されている、
と力説する。

タゴールを訪れたアインシュタインの心境はいかなるものだったのか。
今となっては想像するより他に手はないが、西洋という環境で生まれ育った彼は、
自然の絶対的客観性という当時の「常識」と、自然科学者としての直感が見てしまった「本質」との狭間で、
その戸惑いをタゴールにぶつけ、東洋思想の中になんらかの答えを見つけ出そうとしていたのかもしれない。

量子力学は、自然科学にとって大きなパラダイムシフトだった。
そしてそれは世界観の本質にかなり近づいたものだった。

ただその解釈において、還元主義的な西洋社会の常識が壁となって、西洋人の思想が、本質についていけなかっただけなのだ。

量子力学の創始者たちは、そろって晩年になると東洋思想に惹かれている。
不確定性原理のハイゼンベルグも、「現代物理学ではもはや世界は物体ではなく関連であり、
それが現象のなかで最も重要な要素である。・・・このように、世界は複雑な出来事の織物という姿を呈する。」と言っている。

そして、アインシュタインさえも、「それゆえ物質は、場がきわめて緊密な空間の領域によって構成されているものと
みることができよう。・・・新しい物理学では、場も物質もというわけにはいかない。場が唯一のリアリティーなのだ。」と、
物質が、根源的な実在の一時的な姿にすぎないとみなす考えに至っている。

非科学的であるという理由で、現象が否定されてしまうことがよくあるが、こう考えて来ると、
科学的であるということ(西洋的世界観といっても良い)にいったいどれほどの信憑性があるのか。
非科学的であるといっている人の科学レベルがたとえ量子力学のレベルであったとしても・・・。

(by : 岸ヨシオ)