修験の山・金峰山(2)
金峰山から瑞牆山へ


翌日は瑞牆山に向かう。

砂払いの頭からは、瑞牆山のゴシック建築のカトリック教会のような尖塔がひときわ目立っている。
近くに寄ると、カンマンボロンの岩と大やすり岩が圧倒的に聳え立つ。

     

岩の尖塔・・塔はタロットでは「神の家」と呼ばれる。
仏教でもストゥーパ信仰から釈迦の教えは広まり始めた。

人々の集合無意識のうちに何かのシンボルがあり、
それが世界共通のイメージを形成しているのではないだろうか?

金峰山から下り3時間で富士見小屋に着く。
そこから2時間で瑞牆山の頂上だ。

     

今日はまれに見る好天で、大やすり岩やカンマンボロンが足もとに見える。
不思議な岩にはロック・クライマーが挑戦していた。

     

彼らの思いと、私の思い・・ぜんぜん違うものを持ちながら・・
ここですれ違う不思議を味わいながら・・下山した。

思考は世界を作っているのだ・・・。
その不思議さを追求する旅をこれからも続けて行きたいものだ。

不二の秘密


金峰山の砂払いの頭からは、富士山が大きく見えてきた。
富士はかつては、不二山と呼ばれていた。

     

不二は・・・二つとない山・・日本で一番高い山という意味だけでなく・・・
仏教思想の「不二」が当てはめられていた。

多くの人々は物事を二つに割り切る。

生/滅、垢/浄、増/減、善/悪、男/女、精神/物質、敵/味方
テロリスト/アメリカ・・・・・・・・

しかしこれは中間を無視する思想だ。
コトバでは二つに分けられるけれど、真実(現象)は分けられるはずもない。

このことを密教では、言説不可得(コトバでは真実は得られない)と語る。

不二は無分別智という思想だ。

「こうではない、こうではない・・といえるが、コトバにすると・・真実から離れる・・・。」
というヴェーダンタ哲学の真理なのだ。

世界には二つの世界がある。
言語概念世界(胎蔵界)と一如の世界(金剛界)。

密教ではこの二つ世界が重ねあっていると考える。
そのために左手(胎蔵界)と右手(金剛界)を重ねて・・・金剛合掌を作る。

     

坊主の説教ではよく「一粒の米粒」を示す。

この一粒の米の中に「お百姓さんの労力が観えるかな?」
それなしには、これはないじゃろう〜。
太陽の輝きが見えるじゃろ〜。
それなしにはこれが存在しないじゃろ。

万物の精(エッセンス)がここに宿っているのに、
「一粒の米」というコトバでごまかされているのじゃよ〜。

コトバは幻想を創るというのは・・このことを言うんじゃ!!

万物は繋がりあっている。その真実を「因縁生起」約して・・
「縁起の理法」と言うのじゃ・・。

最近のニューエイジたちは「Oneness」・・ワンネス・・万物は分けられないという。
そのことを古代の日本人は知っておった。
そして不二(フニ)というコトバを作ったのじゃ・・。

不二は・・無分別智・・・Non-dualism・・とも訳される。

     

昔ネイティブ・アメリカンのセコイヤ・トルーブラッドに会ったとき、
彼は「No judgement any acceptane」と語った。

これをソニーの常務・天外伺朗さんは「分別せず(無分別)に受容せよ。」と翻訳した。

分別の元となっている思考は・・それまでにプログラミングされた、
社会的価値観=煩悩に洗脳されているのだ。
それを仏教では「薫習」されている、という。

レベルの低い父・母・先生による洗脳だ。

イエスやブッダの洗脳ではないから・・生に執着し、老をいとい、病を嫌い、
死から逃げようとする。

ノー・ジャッジメントは無分別(不二)の智慧。
プログラミングされている智慧を疑ってみよう。

その智慧に縛られていると、いつまでたっても幸せにはたどり着けない。

いまこそ新しい時代を作る「仏教思想:不二」を見直してみよう。
そうすれば間違いなく「あなたにも幸せが訪れる!!」のだ。   

トムラウシでの遭難・死者10人


私が金峰山に登っているちょうどそのとき、北海道のトムラウシで
10名の中年登山家が死亡する事故があった。

私も、金峰山小屋で出会った中年の登山家たちに
「百名山に登っているんですか?」と質問された。
そこで「修験の山に登っているのです。」 とお答えしたら・・
続きの質問に絶句されてしまった。

「日本・百名山」は石川県生まれの山岳紀行家:深田久弥により描かれた山岳評論集なのだ。
彼の作品が一人歩きして、人々はこの百の山だけが「素晴らしい山だ」と思うようになってしまった。

他者の権威を受け入れると、思考は停止する。

思考を預けるな(自らが思考せよ)・・これが密教の思考法だ。

深田久弥の言葉は、多くの人々にプログラミングされ、旅行会社は人々の希望にあわせて
ツアーを企画する。

しかし、山は「神」である。
好天の時は観音菩薩のように微笑み、悪天のときは「不動明王」のように荒れ狂う。

ツアーで旅行すると、便利である反面・・依存する部分が多くなる。
危機に対する予測も甘くなる。
精神が甘くなると肉体もそれに従う。

だから、山にはできるだけ不便であっても「少人数」で行くことをお勧めする。

「サイの角のようにただ一人歩め」と釈迦のコトバにもあるのだから。 

   
山道を登りながらこう考えた


智に働くと角が立つ。
情に棹差せば流される。
とかく人の世は棲みにくい。
棲みにくさが講じると、高いところに登りたくなる・・・・・・

               (夏目漱石:草枕より)

私も漱石のように・・山を登りながらこう考えた。

「頂上を目指すと、今か・・今か・・と疲れてしまう。」
足元の一歩一歩に集中するうちに、頂上にたどり着く。
そのためには「思考に意識を集中」するのではなく、呼吸に意識を集中することが肝心だ。
呼吸が集中しにくければ、考えている自分を消し去る「マントラ」を繰り返し念じることが有効だ。

辛い登りのとき、私は「般若心経」を念じていた。
すると辛いという気持ちが去っていく事を発見した。

人々は、今に生きているのではなく・・・願望に生きている。
だから、頂上に着いて休めることばかり考えてしまう。

呼吸に意識を集中するのが、「禅宗の冥想法」。
コトバに意識を集中するのが「密教の冥想法」なのだ。

「Be here Now.」

今ここに・・いる私を発見しよう!!