経済学の犯罪

現代の経済学は過度に数字化しすぎて、テクニカルな問題に終始することになった。

人間の複雑な営みを、そんなに簡単に数字化することができるのだろうか?

経済学は資源の効率的配分を目的にする科学だというが、
効率性の追求とは、ひとつの価値判断に過ぎないのではないだろうか?

効率性を犠牲にしても、公平性を取るとか、環境を大切にするとか、あまり働かず気楽な生活を楽しむ、
などという価値観もあるのではないか?

ところが我々は経済学という科学のおかげで、「効率性の追求」という価値へと強制され、
それから逃れられなくなっているのである。

私たちはそのような価値観を選択したのだろうか?


過当な競争と、単純化された能率主義と、すべてを金銭評価する社会と、短期的成果主義などの発想法が、
われわれの精神を追い詰め、生活を貧弱なものにし、社会を窮屈なものにしてしまったのである。

この窮屈さから逃れるためには、ある程度の不合理な思想と無駄な時間もわれわれの生活に必要なのである。

日本の活路を開くか細い一本の道は、成長主義という思い込み(プリコンセプション=薫習)から解放され、
脱成長社会への道を歩むことなのである。

われわれはどうやら「善き社会」とは何か、という伝統的な問いの前に回帰しているのではないか?

容易には合意が出ないこの問いに答える構想力こそが、この苦境からの唯一の脱出口(エクソダス)なのである。

「善い社会」についてのナショナルイメージ(共同幻想)が生み出せないようであれば、
この国は深い文明の闇の中に沈み込んでしまうのではないだろうか?

                          (佐伯啓思:講談社現代新書より抜粋)



ネパールの冥想道場で10日間のヴィパサナ冥想を受講した時、
日本の山仲間に「なんで10日間も同じ部屋の中で・・・もったいない!」と言われました。

無駄な時間こそ、豊かさの文化の象徴なのかもしれないのに!!

だから「江戸時代」には、もっと豊かな時間が流れていたのです。

私のように17年間も宗教国ネパールに通って世界を観察していると、
宗教性、思想性の無い日本が没落していく姿しか想像できないのです。

(小林宗峰)