華厳の世界観 


以下は物理研究家・岸善生さんの死生観です。

【 】内は宗次郎の意見です
まずはお読みください。:小林宗次郎

柳澤桂子さんの粒子的・死生観


昨年の年末に(12月30日)にNHKで「あなたのアンコール2005」 で、
『いのちで読む般若心経』生命科学者 柳澤桂子という番組を見ました。

彼女の著作「生きて死ぬ智慧」の中では般若心経の「空」について
次のような解釈がなされているというお話を聞きました。

 「もし あなたが 目も見えず 耳も聞こえず 味わうこともできず 触覚もなかったら
  あなたは自分の存在を どのように感じるでしょうか 
  これが『空』の感覚です」

この解釈は、とてもわかりやすいなと私は思いました。

般若心経の「無眼耳鼻舌身意」の部分の解釈でありましょうが、
「空」の感覚が実によく実感できる表現です。

深い瞑想に入った時などにはこのような感覚に近い状態になれるのではないでしょうか。
また、こんな記述もあるということでした。

 「お聞きなさい あなたも 宇宙のなかで、粒子でできています 
  宇宙のなかの、ほかの粒子と一つづきです 
  ですから宇宙も『空』です あなたという実体はないのです 

  あなたと宇宙は一つです」

原因がわからない病に冒された彼女は、いろいろな宗教に救いを求めた結果、
仏教の「空」とは、宇宙は粒子でできていて、全ての粒子がつながっているということなのだ
と気づいたことで救われたとのことでした。

彼女の生命科学者としてのバックボーンが成し得た技だと感じ、
ある意味で感動いたしました。

すべてのものが分子でできていて、その中のある部分にはこういう名前がついており、
また別の部分にはああいう名前がついているということにすぎないということに、
あるとき気づいたのだそうです。

土も木も葉も雨も、テーブルもお皿もコーヒーカップもそして人間も
よ〜く見てみれば分子のつながりにすぎないと気づいたそうです。

ここにも、不二の思想に近いものを感じました。
全てがつながっており、分けられないという不二の思想です。


岸善生さんの波動的・死生観

ここで、私の意見を述べさせてもらえれば、この「粒子」という解釈は、
生命科学者的な観点だなと思いました。
あるいは分子生物学者的な観点だなと。

彼女を批判するつもりは毛頭ございませんが、
この世界を物理的な観点から眺めて見ますと、実は粒子性を否定するところから始まります。

粒子ですらも、さらにその背後にある波動性から顕現しているにすぎないのです。

物理的な観点で見てみますとさらにエソテリック密教的な世界が見えてきます

私たちは、言葉で話さなければならないため、あらゆるものに「名前」をつけていますが、
実はこれが厄介の始まりなのです。

これは鉛筆、これは手、これは脳、などというように、「名前」(あるいはラベル)をつけて、
ものを分割して認識するという習性が私たちにはあるのです。

これがあらゆる誤解のもとであると仏教は言います。

例えば、脳とはいったいなんでしょうか。

脳をよーく見ていくと、神経で出来ており、神経をよーく見ていくと分子で出来ており、
分子は原子で、原子は原子核と電子で、原子核は陽子と中性子とゲージ粒子で、
さらにはレプトンやクォークでできているという具合になっていますが、

現代物理では、結局、これらはゲージ場(電磁場やクラインゴードン場)やディラック場、などと言うように、
場の変動になってしまいます。

つまり大海の波ですね(そしてこの波が伝播関数なのですが)。

素粒子の自性をご覧になったことはありますか?

電子や光子があるじゃないかというかもしれませんが、
このようなものも教科書や雑誌に何か球体で絵が描いてあるものを見ただけですよね、結局。

あるいは、ガイガーカウンターがカチンと鳴った音か、
加速器の中の飛跡くらいですよね、せいぜい。

そして、カチンと言う音や、飛跡とは、電子や光子そのもの(自性)なのでしょうか?
繰り込み理論では、電子の質量なんて、無限大から無限大を引いた差として記述されています。



【私(色)は「なみがしら」・色即是空-----宗次郎】

イメージとしては、電子などというものは、大海(空=全体性)の「なみがしら」色=形あるもの
程度のものではないでしょうかね。

比較的安定して長い時間「なみがしら」の形を保っている程度のものなのでは?

【自分のことを、こんなに冷静に、簡単に思えるでしょうか?-----宗次郎】

湘南海岸の波はすぐ消えてしまいますが、
カリフォルニアのポイント岬に現れるビッグウェンズディが
その形状を比較的長い時間保っているのと同じように、

「なみがしら」の体積を計算せよと言われても、どこからが「なみがしら」で
どこからが「海」なのか分けることは出来ませんね。

あえて言えば、「なみがしら」を含めた「海」から
「なみがしら」をのぞいた「海」を引いたものが「なみがしら」です。

「なみがしら」を含めた「海」も無限大。

「なみがしら」をのぞいた「海」も無限大。

無限大から無限大を引いてみると、「なみがしら」という「物」が一応表現できるわけですね。

そして、その「なみがしら」に、ご丁寧に「電子」だの「光子」だの「クオーク」だのと
「名前」あるいは「ラベル」をつけているだけなのでは。

こう考えると、この世は、ほとんど、場と言う大海のうねりで、
そこから現れては消え現れては消えしている波が存在しているだけのような気がします。
究極的には。

そして、それらの波は大海の隅から隅で相互に影響を及ぼしあっており、
その相互に及ぼしあっている影響が、たまたまうまい具合に波を強めあう方向に働くと、
そこに比較的安定的な波が作り出され、
私たちはそれに「物」あるいは「物質」という名前をつけているだけなのではないでしょうか。

【物質(色)は波動(空)の一時的顕現-----宗次郎】

そして、「電子」と名づけられた波、「クオーク」と名づけられた波達が重なり合って、
更に比較的長い時間その形状を保つ波を形作りそれにつけられた名前が「原子」、
「原子」と名づけられた波達が更に重なり合って、更に安定的な・・・・・・という具合になって、
冒頭の経路を逆にたどって、「分子」「神経」「脳」と言う具合になっているのではないでしょうか。

究極的には、大海の、波の相互の影響の結果、ただ出来事が存在しているだけ。

「脳などというものも、場という波の変動と相互作用の結果、
たまたま脳というものが出来ちゃった」くらいに考えた方がいいのでは。
量子論の経路積分を考えていると、ほんとこんな気がしてきます。

ただし、この波は、大海の波のように穏やかな波ではありません。
ワインオープナーのあの螺旋の部分がものすごい勢いで高速回転しているイメージですからね。

ですので、いま触っているキーボードなどには、ある意味物質的な質感があるのではないでしょうか。
高速回転のワインオープナーに私たちの手はある意味はじき飛ばされているわけですからね。

こういった意味で、私は唯波動論者なのです。
まず波動関数ありき。。。

そして、唯波動と唯識が似てるため、唯識に興味を持っています。
例えば、この「大海の波の相互作用」は、華厳経で言う「重々無尽」であります。

場の量子論では「繰り込み」という手法を用いると、現象がうまく説明できます。
ウィキペディアから「繰り込み」という言葉を調べてみますと、次のように書いてあります。

電子の質量(自己エネルギー)や電荷を測定した場合、
真の電子の質量や電荷とこの真空分極による質量や電荷への寄与の和が得られる。

真空分極による質量や電荷への寄与を量子電磁力学により計算すると、
これは無限大に発散してしまう。

そこで真の電子の質量や電荷をそれと逆の符号の無限大とおいて、
測定値と理論値が一致するようにする。これを繰り込みという。

【マイナスの無限大+無限大=自己の波動-----宗次郎】

これは、次のようなことを言っています。

測定された電子の質量(自己エネルギー)や電荷:me(有限値)
真空分極による質量や電荷への寄与:∞
真の電子の質量や電荷:−∞

真の電子の質量や電荷 + 真空分極による質量や電荷への寄与 = 測定された電子の質量(自己エネルギー)や電荷
つまり、
−∞ + ∞ = me
となり、私たちが見ている(観測している)電子の質量や電荷は、
無限大ひく無限大で表されると言うことです。

私も世界はそれほど確固としたものではないと感じています。
電子などは大海から一時的に顕現しているさざ波のようなもの・・・
そして私たちもその延長に過ぎません。


【極大から見た極微・でも自己への執着は乗り越えられるのでしょうか?-----宗次郎】


生と死は対極の概念のように一般には思われがちですが、
私はそれほど大きく違わない概念だと思っております。
あるいは連続した概念といったほうがいいかもしれません。

生と死の違いは、よく考えてみるとそれほど大きくないような気がします。

これらの違いは、心臓が止まること、脳波が止まること、呼吸が止まることくらいです。

【自分のことだったら・・そう言えるの? 理屈に過ぎないのじゃないの?-----宗次郎】


心拍が止まった心臓を構成している細胞を更に細かく見てゆくと、炭素や酸素や水素で出来ていますが、
いわゆる死の後でも、炭素の周りでは相変わらず6個の電子が回っておりますし、
酸素の周りでも8個の電子が脈々と回り続けています。

たとえ体が朽ちたとして土となったとしても、その中では相変わらず同じように
炭素の周りを6個の電子が、酸素の周りを8個の電子が回っています。

あるいは火葬されたとしても、体から出た煙の二酸化炭素の中では、
相変わらず炭素の周りを6個の電子が、酸素の周りを8個の電子が回っています。

そしてその電子さえも、上述いたしましたように、元を辿れば波の重ね合わさった結果に過ぎません。

この波動の重なり合い方のバランスが崩れ、電子の分布が微妙に崩れ、
炭素や酸素の構造に影響が及び、心臓や呼吸、脳の機能にバランスの崩れが及ぶと、所謂、
病気になったり、それらの機能が停止すれば「死」ということになります。

海面に現れていた、さざ波が崩れ、海に同化する。
死はそんなイメージです

非常に冷めた表現になってしまい申し訳ないのですが、これくらい連続的なものであり、
生と死がそれほどドラスティックな変化ではないことを言いたかったのです。

もしかしたら意識についても生前と死後で連続しているかもしれません。
物質がこれだけ連続的なことを考えれば、意識についても連続的である可能性はあると思います。

阿頼耶識などには、人生の経験が全て蓄積されているといわれます。
それもこの人生だけではないようです。

一方で、量子論の波動関数も実は同じような概念になっていまして、
電子や光子がたどってきた経路や歴史が全て含まれているというつくりになっているようです。
物理的に考えてみましたときに、私はこんな死生観を持っております。


                                   岸善生

【読むだけで覚りが得られる・華厳経】 宗次郎

以上は物理研究家、岸善生さんの文章です。

「だから物理研究家は・・・!!困るんだよ!!」って思いませんか?
「どんなに考えても、自分の死と物理的真実は別のものだ!!」って思いませんか?

ところが実は、徹底的に思考し続けているうちに、死を受け入れる感覚が芽生え、
物理的真実を受け入れられるようになるのです。

そのひらめきは、絶え間ない思考を続けているうちにあるとき直感的にやってきます。
この直感を導くために華厳経では、無数の世界を一つ一つに名前をつけ、
重なり重なり合った多くの世界を、繰り返し繰り返し述べています。

それを読み込んでいくうち、自己の意識が変容していくのです。
華厳経は読むだけで覚りが得られるお経なのです。

「極大」とか「微塵」とかはコトバに過ぎません。
でもコトバを知っているだけで、私たちはそれが分かっているように誤解してしまいます。

そこで華厳経では「極大」のイメージを得るために、蓮の中の世界を、数限りないコトバで描いています。


華厳経の描く蓮の種の中の世界        インド宇宙誌 定方晟---より抜粋

不可説仏刹微塵数の香水海の中央に、一茎の巨大な蓮華が立っている。
その花の冠は五色の光に輝いている。
花の中のおしべは、馥郁たる香りを漂わせている。

大蓮華のふちを取り巻く花弁の列は、華厳世界を縁取る大輪囲山になっている。
花弁は峰となって立ち並ぶ。
その内側に湛えられる密は、華厳世界の香水であり、おしべは宝林であり、香草である。

大蓮華の中央にある花托は華厳世界の大地である。
それはダイヤモンド(金剛)でできていて、固くて清らかで平らである。

花托の上には果実を収める穴がいくつもある。
その一つ一つは華厳世界の香水海である。

華厳世界ではその数は「不可説仏刹微塵数」
すなわち宇宙の測り知れない数の仏国土を粉々に砕いたときの、砂の粒の数ほどである。

一つ一つの香水海の海底や海岸は宝石でできている。
香水海の水はすきとおって、種々の宝石の色を映し出している。
種々の宝華がその周りをめぐって生え、栴檀の細末が水底に沈んでいる。 

-----中略-----

不可説仏刹微塵数の香水海の中に、不可説仏刹微塵数の世界種が安住している。
一つの世界種の中にはたてに二十個の世界が連なり、
二十の世界の一つ一つをまた無数の世界が取り巻いている。

二十の世界の、互いの間隔は、不可説仏刹微塵数の距離である。
二十個の世界の、最下部のものを、「最勝光遍照」と名付け、「仏刹微塵数」の世界がそれを取り巻いている。
この世界の仏を「浄眼離垢燈」と名付ける。

その上の世界を「種々香蓮華妙荘厳」と名付け「二仏刹微塵数」の世界がそれを取り巻いている。
この世界の仏を「師子光勝照」と名付ける。

-----中略-----

最上の世界を「妙宝焔」と名付け、「二十仏刹微塵数」の世界がこれを取り巻いている。
この世界の仏を「福徳相光明」と名付ける。

・・・・・途中省略した十三番目の世界が、私たちのいる「娑婆世界」です。
蓮の種の中に、これだけ多くの世界があります。

「極大」というコトバだけで、知ったつもりになってしまう私たちは、
リアリティ(現実の認識)を失ってしまっているのではないでしょうか?

読んで、考え込んで、覚りを開くお経が、華厳経なのです。
物理学を徹底的に考え込んで、岸善生さんも、同じ境地に達してきたのかもしれません。

でもまだ難しいと思った方には、次の文をプレゼントしましょう。

果実の種の物語

父「このバニヤン樹の果実を持ってきなさい。」
子「はい、持ってまいりました。父よ。」
父「それを割りなさい。」
子「はい、かしこまりました。父よ。」
父「中に何か見えるか?」
子「とても小さい種が見えます。父よ。」
父「その一つを割ってみよ。息子よ」
子「割りました。」
父「中に何が見えるか?」
子「何も見えません。」

そこで父は息子に語った。

父「息子よ、種の中の眼に見えないこの精髄から、まさにこのような大樹が生じるのだ。
  息子よ、私の言葉を信じなさい。眼に見えない、微妙な精髄が全宇宙の精神なのだ。
  それこそ実在なのだ。それこそアートマンなのだ。
  汝がそれなのである。」




そろそろお分かりになってきましたか?
とどめに、金子みすずの詩を用意しました。


---精髄は眼に見えぬ---

  星とたんぽぽ

青いお空のそこ深く、海の小石のそのように、
夜が来るまで沈んでる、昼のお星は眼に見えぬ。

見えぬけれどもあるんだよ。

見えぬものでもあるんだよ。
 
散ってすがれたたんぽぽの、川原の隙にだァまって、
春のくるまでかくれてる、強いその根は眼に見えぬ。

見えぬけれどもあるんだよ。

見えぬものでもあるんだよ。



---繰り込み理論・重々無尽---

  ハチと神様

ハチはお花の中に、お花はお庭の中に、
お庭は土べいの中に、土べいは町の中に、
町は日本の中に、日本は世界の中に、世界は神様の中に。

そうして、そうして神様は、小ちゃなハチの中に。



繰り込み理論

岸さんの言う「なみがしら」と海のたとえは、色即是空のたとえとしてよく使われます。

空海は波と海とは同じ湿りであると語ります。


形あるもの(色=自分)は全体(空=宇宙)と同じ水の要素で出来ています。
「なみがしら」です。
全体の中に「なみがしら」は溶け込んでしまいそうです。

マイナスの無限大+無限大=自己の波動はこのような想像力から生まれるのです。 

たまには難しすぎる文章を読んで、自己を解体してください。
それが新しい自己を作るきっかけになるでしょう。