チベット・カイラスに天空の城を見た

チベット・・・・この呼び名は日本では文明の果て、最奥の未開の土地を意味しています。

そのチベットの西部、砂漠の果ての最奥でカイラスという山(6,714m)は永遠の時を過ごしています。


カイラス。
その響きは冒険者にとっては征服に値する場所、巡礼者にとっては地球の中心軸、須弥山なのです。

カイラスの岩峰が天と地を分ける砂漠の平原に突然立ち上がる姿は、
ヒンドゥー教徒にとってシバリンガの象徴、シバの神自身の姿です。

チベット密教の信者にとっては、カン・リンポチェ=彼らの信じているパドマサンバヴァの住まいなのです。

この山の周りを標高4,600mから5630mの峠を越えて右回りに50kmまわる、コルラという修行は、
自分自身の過去のカルマを解消する最高の場となっています。
中にはこの山の周りを五体投地をしながら、2〜3週間かけて周る人もいます。

2003年9月17日より10月の12日まで、目黒まんだらやではカイラス巡礼ツアーを企画し
7人のメンバーと共に、この辛いコルラ(巡礼)に挑みました。

成田からネパール・カトマンズ


旅の計画は1年以上前から企画され、毎月の登山や高度順応のための低酸素室でのエアロバイクなどの
トレーニングを積んできました。

そして9月1日には富士山3,776m登山。
日本最高度の山小屋で宿泊し、ご来光にカイラス巡礼成功の祈願をして、すべてのトレーニングを終了しました。

出発は成田。
バンコクを経由し無事カトマンズについたのですが、なんと到着前日より3日間ネパールはゼネストです。

現在のネパールはマオイスト(毛沢東主義者)というテロリストと政府の間で小競り合いがあり、
時々マオイスト側がゼネストをしかけるのです。

ホテル以外の店が開いていると、告げ口をされて襲われることがあるため、店はすべて閉まっています。
タクシーさえも「石を投げられるから」と営業していません。

到着翌日、そっと開いている小さな店を見つけ、なんとか不足の登山用具を購入しました。

ここで参加者の紹介をしましょう。

まずは世界を股にかけるダンサーC嬢。金髪の容姿がチベット人の度肝を抜きました。
次に日蓮宗の僧侶で登山家のS氏。真言宗の阿闍梨である私と坊主頭が並びました。
次にエアロビ教師のF嬢。日本野鳥の会のI氏。中年登山家のA氏。
最年長はヨガ教師のT嬢という異色のメンバーでした。

                                 
ラサで高度順応


さてカトマンズ〜ラサまでの飛行機は1時間、白銀のヒマラヤは一面の雲で見えませんでした。
到着したゴンカル空港は海抜3,600m、この高度では空の色が濃紺に変わります。

額の体温を測るサーズ防止のチェックが済むと、中国チベット自治区に入国許可が下りました。

外にはこれからの3週間共に旅行をするガイドのプンチョ(31才)が待っていました。

逞しそうに真っ黒に日焼けした若者の顔を見てとりあえず安心し、
一路マイクロバスで2時間、大地と空が続く中をラサに向いました。

私にとっては3回目のラサ。5年前はまだ田舎の町のイメージが残っていました。
ところが今回のラサは上海か、北京か・・・完全に中国の町になっていました。
宿泊したキチュホテルも漢人経営の高級ホテルです。

ラサでの観光は1日目は近郊のデブン寺、2日目はポタラ宮です。

しかしラサは高度順応とカイラス巡礼祈願の場所。
最も聖なるジョカン寺院で五体投地をすることを予定していた私は、
早朝6時に目覚ましを合わせ早めにベットに入りました。

目覚ましの音で起きると外は真っ暗。
時間は合っているのですが、チベット自治区では北京時間を採用しているために、
日の出にはまだだいぶ時間があるのです。
こんな大きな国が一国一時間なんて〜?!

支配されている国の悲哀を感じつつ、その暗闇の中をジョカン寺院に向うと、
入り口には30人ほどの人がすでに五体投地を始めています。

少し離れたところで真言宗の五体投地を始めました。
しかしそこは石畳。膝をドンと付くだけで痛くなります。

横で五体投地をしていた老僧侶が、見るに見かねて教えてくれました。
着ているフリースのジャケットをシートのように下に引くのです。なるほどこれなら痛くない。

百礼(ひゃくらい)を終わる頃には、身体も温まり高度による息切れにも馴れて来ました。

 
           歴代のダライ・ラマの住まいであったポタラ宮
高山病の危険


祈願を終えてすがすがしい気持ちになり、ホテルの朝食の場に戻りました。
食事の前は、パルスオキシメーターによる血中酸素濃度の測定です。

高山病と風邪の症状は似ています。
高山病は死に至ることも多いので、血中酸素濃度の測定が重要になるのです。
数値が60を切るとすぐに低い高度に降ろさなければなりません。

でも、もしそうなってもチベットに低い高度の土地は存在していません。
後は酸素吸入かガモウ・バッグという緊急処置しかありません。

観光客の中にはラサ3,800mだけでも高度障害になってしまう人もいます。

私たちは成田出発より血中酸素濃度のデーターをつけ始めました。
そのうちに朝パル、夕パルと呼んで、測らなければ物足りないほどの習慣になったのです。

また高度順応のためにはダイアモックスという利尿剤を飲みます。
1日2リットル以上の水を飲むことが、高度障害に唯一役立つ対策なのです。

ギャンツェからシガツェ


ラサでの観光を終え今日はカイラスに向けて出発の日です。
それまでのマイクロバスから4WD/トヨタのランドクルーザーに変わりました。

2台のランクルに分乗し、3日後にはラツェで、
テントや食料を積んだネパールのシェルパたちのサポートトラックと合流です。

             

ギャンツェまでは一部コンクリート舗装の道を進み、昼過ぎにはホテル着。
午後にはパンコル・チョエデの寺院に向いました。

寺院の手前にあるギャンツェ城は、1903年ヤングハズバンド率いる英領インド軍の機関銃、大砲、ライフル銃に対して、
先込め式の火縄銃や剣、槍などで戦い、3ヶ月の間持ちこたえたというチベット人が胸を張れる歴史の残された城なのです。

ガイドのプンチョもこの歴史を声高に語り、メンバー一同、西欧社会が植民地獲得競争をしていた時代を思い起こしました。
そして今でもチベットは大国支配の歴史が続いているのです。

パンコル・チョエデ寺院の中にあるパンコル・チョルテン(仏塔)は立体曼陀羅。
15世紀前半に作られたチベット最大の仏塔です。
8階建ての仏塔の内部に75の部屋があり、各部屋に仏像が安置され、回りの壁には10万体の尊像が描かれています。

最初のうちは一部屋づつ見て、各尊のマントラを唱えていたのですがあまりの多さに閉口し、
見晴らしの良い場所で般若心経を読誦し、省略させていただきました。

翌日は半日の行程でチベット第2の都市、シガツェ。ここでの観光はタシルンポ寺院。
山を背景にして、阿弥陀如来の化身といわれるパンチェン・ラマ1世の純銀・11mの巨大な霊塔が鎮座し、
大集会堂や四つの学堂、多くの僧坊がそろって荘厳なたたずまいを見せています。

しかしこのような大伽藍も中国の10億円の援助により作られたと聞くと、
チベット最高の人数800人を要するこの寺院の僧たちの姿が哀れに思えてきました。

その日泊まった漢人資本のウツェホテルの前には、最新のしゃれたサンルーム付きアパートメント・ハウスが立ち並び、
漢人のための新興住宅街になっています。
ホテルの前はカラオケ・ハウスで、真夜中まで漢人の歌声が響き、寝つかれませんでした。

シガツェからはカトマンズに向う中尼公路(中国・ネパール道路)を走り始めます。
中間のラツェでネパールからのシェルパ・スタッフ3人と終結です。

ラツェから先はテント生活です。
サポートトラックに積んだ日本食や寝袋と共に、登山経験豊かなシェルパで日本食も作れるコックの料理が食べられるのです。

ところが出発をする前にガイドのプンチョが暗い顔をしてささやきました。

「コバヤシ、ネパールからの道路が地すべりで遮断している。今日はシェルパに会えない。
 明日、1日先のサガで落ち合う予定だと、ラサのエージェントに連絡が入った。」

「おい、今日はどこで寝るんだ〜。食堂はあるのかラツェに?」

「ドライブインに泊まろう。ホテルほどでないがロッジはあるから心配ない。」

半信半疑の私でしたが、ガイドを信じて行くしかありません。