甲斐・駒と摩利支天(信玄と勘助)
修験の山:甲斐駒ケ岳(2967m)に登って来ました。

北沢峠の小屋に前泊し、朝4:30発・・午後2:30着の10時間の登山でした。

甲斐・駒ケ岳は「摩利支天」という強大な岩峰に支えられています。
摩利支天とはサンスクリット:マーリーチの音写語です。

     右側の岩峰が摩利支天

太陽の周辺にある「日輪」「陽炎」「威光」を意味します。
尊像は走る猪の上に立っています。

【御真言:オン・アニチヤ・マリシエイ・ソワカ】


この摩利支天を強く信仰していたのが、武田信玄の軍師:山本勘助です。

彼は1551年に信玄と共に得度しました。

山本勘助は川中島の戦いで信玄のライバル・毘沙門天信仰の上杉謙信と戦いました。
この時の奇襲戦法:キツツキ戦法は謙信に見破られ、1561年戦死しました。

摩利支天(まりしてん)が毘沙門天(びしゃもんてん)に負けたのですね。

試験のときにもヤマカン(山本勘助=山勘)は、ほどほどにしましょう。

彼の主人・武田信玄は日ごろから剃髪に袈裟の装束で不動明王の信仰を持ち
「天台宗座主・信玄」と名乗っていました。

当時の人々のイメージでは、甲斐・駒が風林火山(動か不ること山の如し)で不動明王の信玄、
それを支える摩利支天(威光の光)が勘助なのですね。

かたや謙信は1556年6月家臣団の不和に嫌気が差し、武将を捨て「高野山」に旅立ちました。

8月17日家臣団の追っ手が謙信に追いつき「誓紙」を提出して出家を思いとどまらせ
謙信を越後に戻らせたそうです。(これは謙信のヤラセとも言われています)

戦国時代に流行していたこのような信仰、
現代はぎりぎりに追い込まれた人々でないと持てないのでしょうか?

人は石垣、人は城という信玄と勘助の想いこそ「縁起の思想」なのです。

すべてはあなたの心の投影(認識が世界を作っている)と密教では考えています。
背後の力(神仏)とつながっている、そのイメージ(確信)が人々の無意識を強化させる信仰なのですが?

現代人は自我というバラバラな世界観に生きていて、目的を失い手探りをしている盲人のように思えます。

「この国を良くしたい」宮崎県知事の言葉が・・・魂を揺さぶります。




不二(富士山)の真実が浮かぶ、雲上世界は修験にとっての観音浄土なのです。
左下のポツッと浮かぶ岩峰は鳳凰三山(地蔵・観音・薬師)の中心の観音立像(オベリスク)です。


中央の丸い岩が摩利支天、左に富士山、右に日本第二の高峰・北岳。