いい加減が一番! 〜神々の変遷〜
支配者は神?


仏教が日本に伝えられた時、人々は仏教を異国の新しい神と考えました。

しかし時代を追うごとに仏教は日本の教えとして定着し、
仏の面々も習合思想により、神々と同居をするようになりました。

これは本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)と呼ばれ、仏が神の本地と考えられていました。

伊勢神宮の天照大神(あまてらすおおみかみ)は、大日如来。
熊野の本宮大社は阿弥陀如来。
新宮速玉大社は薬師如来。
那智大社は観音菩薩。
三輪山の神は地蔵菩薩。
祇園の八坂神社の神、牛頭天王(スサノオノミコト)は薬師如来が本地仏なのです。

このようにい今までの神は仏との共存共栄を果たすことで、
共に排除される争いを起さなかったのでした。

いいかげんですね〜。

でも、これは賢い智慧といえないでしょうか?
白黒つけずに、両方の良いところを見て受け入れる、きわめて融通に富んだ思想です。

もちろんこれを、いいかげん「良い加減?」と言う人もいるでしょう。
この習合思想を育んだのが修験道でした。

ところが明治政府の役人たちはキリスト教的一神教支配体制の厳しさを好みました。
天皇の権威を借りて討幕運動を起した彼らは、その後も天皇を支配体制の一環に利用しました。

西洋の支配体制がキリスト教と連携しピラミッド型の支配体制を引いているのを見習い、
天皇をピラミッドの頂点に置く体制を作り上げたのです。

そして1868年に神仏分離令を出し、廃仏毀釈を行い、1872年には修験道廃止令を出しました。
明治政府の支配者たちは、欧米で学ぶあまり、欧米崇拝信仰になってしまったのです。
欧米社会が神に祝福されている国に思えたのでしょう。

なんと文部大臣・森有礼は日本語を廃止して、国語を英語にしようとして、国粋主義者に殺されてしまいました。
鹿鳴館の宴の馬鹿・馬鹿しさは、時代の過渡期には付きものなのでしょう。

当時は帝国主義全盛の時代でした。
西欧の帝国主義から支配されないために、日本は軍事国家への道を歩み始めました。

富国強兵・・・力は正義だったのです。
工業力を増して軍艦を作る必要性があったのです。

そのために和魂洋才と唱え始めました。
しかし洋才は、大量生産大量消費、市場を必要とします。
必然的に軍事力による後押しのある市場として満州の支配が始まるのです。

ここで欧米との対立が始まります。
するとアジアの中で、日本人が兄となり、欧米の支配に対立する思想を創りました。

これは八紘一宇思想と呼ばれ、天皇が絶対的な神となったのです。

神々の変遷

大東亜戦争の敗戦は、再度の西洋コンプレックスを産み出しました。
白人コンプレックスは日本人のトラウマになってしまったのです。

戦後の進駐軍による支配体制は、戦前の絶対否定を伴い、教育の中から戦前の思想は一掃されました。
しかし軍人の持っていた男性的な思想、武士道ともいえるプライドの思想も共に失われてしまいました。

そして天皇の代わりに支配体制のピラミッドの頂点に登場したのが会社です。
物質至上主義に転向したのです。
これから50年余り、日本は会社による支配体制の蜜月時代が続きました。

就職を果たした社員には、社員の住む場所から、結婚式、レジャー、葬式まで、
至れり尽せりの家族制度のような保証を約束していたのです。
社員は社長を父親のように慕い、社長は父親の役割を担い上下関係は順調でした。

今は物が不足しているので不幸だが、物が豊かになりさえすれば幸せになれると信じていました。
豊かさをもたらす、会社が、そしてお金で買える物質(カー・クーラー・カラーテレビ)が神になったのです。

しかし1990年の日米構造協議は、日本を競争社会に導く大変な選択でした。

むかし武者小路実篤は色紙に「仲良きことは美しきかな!!」と書いて、
小さな九谷焼の皿に乗せたジャガイモやニンジン、ピーマンを描いていました。

日本人は穏やかな争いを好まない民族です。
ところが皿は「談合」と呼ばれ、強制的に排除され、洋皿が用意され
レモンやグレープフルーツが押し寄せてきたのです。

競争の思想は敗者を作ります。
西洋社会はキリスト教との二重構造になっています。

政治は競争社会、精神面はキリスト教、敗者に対するボランティアの思想があります。

カーター元大統領のように、ボランティアをライフワークにする政治家も現れているのです。

しかし日本には、競争社会の原理が馴染んでいません。
対立を避けようとする、いいかげんな思想(良い加減な)、習合思想が日本人の得意なのです。

自己主張をせずにうまく話をまとめようとするのです。

社会が二重構造ではないので、今の社会は競争だけの心を許せない、悲惨な状態になってしまいました。

神々の再発見


そこで人々は精神社会を求めようとします。
ニューエイジの本や神道、仏教の本が売れています。
でもそこまでです。

それ以上、下手に精神社会を求めると、どこかの宗教団体に参加せざるを得ません。
そうするとそのグループの価値観(神仏の名前)が最高になってしまうのです。

いま、世界は神の名前が違うことで殺し合いをしています。
違いを強調すれば世界はまとまりません。

でも新たな習合思想は、ニューエイジの間にサムシング・グレートとか
ハイヤーセルフとかワンネスという言葉により日本にもたらされています。
これら言葉は、神々の名前の総称として登場したのです。

日本人は山川草木に神仏が宿る思想を持っています。

お天道様や「ののさま」(月のこと)と無邪気に手を合わせることが重要なのです。

私たち日本人は、自然の中で、石、月、草、花、雲、海、山と話をすることができるのです。

最近良く売れているクリスタルやチベット天珠など、各種の輝石も新しい神なのです。

これからは、それぞれの神々の共通点を探し出して、
「みんな違って、みんな良い」曼荼羅の思想になりませんか?