カバラーと真言密教の秘密

意識レベル:西欧人と日本人の違い


イシス学院にカバラーを学びに行っています。
今まで学んだチベット密教や真言密教という複雑系を、どのように提案していけるかの物差しとして、
カバラーはとても有効な思考法です。

カバラーを奥に秘めるタロット・マンダラは、今その人の陥った意識レベルを
違う視点に導くことを示唆することで、意識の成長をうながすことができます。

ところが多くの日本の人は、意識レベルに大きな差があることに気付かずにいるようです。

人類皆兄弟VS選民意識


西欧人(ユダヤ)の思考法には意識レベルの階層性が内在していて、
それが人格の階層性(人種差別)にもつながるようです。

キリスト教社会がインドやアフリカの異民族世界支配が出来たのは、
意識レベルの階層性理解なしにはあり得ません。

ところが日本人は、植民地支配の経験も乏しく、人格の階層性に対する意識が少ないため、
人種差別も少ないけれど、それゆえに意識の成長と深化も考えることができないのです。

「人は皆同じである」と思いがちなのです。

第二次大戦の植民地支配が失敗し、中国や韓国との間で今でも摩擦があるのは
この思考法が原因なのです。

真言密教の意識の上昇階梯(ステップ)


その視点で、真言密教・曼荼羅を観ると胎蔵界は「複雑系=人類皆兄弟」、
金剛界は「非・複雑系=意識の階梯と深化」なのです。

曼荼羅の尊格:如来・菩薩・明王・天・人間(行者)という尊格の階層性は、
人の意識レベルの高次意識から低次意識への人格成長と深化の階梯(ステップ)です。

真言密教では、行者から金剛薩_(ヴバジュラサットバ)になり・・
大日如来(ビルシャナ佛)になる思考階梯を踏んで、宇宙意識になろうとするのです。

金剛界曼荼羅では階層性のある地図を通して、さまざまな尊格に内的に出会い、印と真言を唱え、
内的に上昇していく道を辿ります。

密教では、内的出会い(イメージ形成)が、外的出会いと同等であると考えます。

外的であれ内的であれ、強烈な出会いが、心の記憶媒体(深層意識)にある
過去からの心的印象(カルマ)を変容、解消させると考えているのです。

胎蔵界曼荼羅では、重々無尽のネットワークの中で、自他不二の内的成長を通して、
「われは大日如来」という「内的体験と如来からの使命」を通して、人格の変容を得るのです。

人格変容を遂げた行者は「護摩」により不動明王(火天)という炎の象徴
(カルマを焼き尽くす智慧のエネルギー)を駆使して、祈願者のエネルギー変容を操作するのです。

しかしこの意識の上昇階梯は、上昇することに意味があるのではありません。
それどころか、上昇できるのに上昇せず、この世で不動明王として生きている、
大日大聖不動明王という尊格もいます。

また理趣経では、完成した如来に成れるのに、菩薩のままでこの世に留まっている
菩薩形の大日如来を賛美しています。
大日如来の図像には、ネックレスをまとい冠をつけた菩薩形の如来が描かれているのです。

意識レベルは大日如来になり、身はこの世で迷っている人を導くことが密教の世界観なのです。

真言密教の低次魔法


西洋社会とは違い東洋では、身近な不動尊などに御参りに行くことで願望実現の信仰から・・
一瞬にして密教の道に入らせようとしています。
神仏の異次元世界があるという仏教の世界観がここで役立ちます。

願望実現のため自力から他力の世界観に入ることで、「自我を消滅させ」
一瞬にしてシンクロニシティ(共時性)を生起させようとします。

そのためには、お百度やお茶断ちなどの、「継続した願望実現意識」を必要とするのですが・・・。

カバラー:生命の木の低次魔法


カバラーの10のセフィロートも意識の階層を表し、
マルクト(行者)からテレファト(ライトワーカー=光の戦士=金剛薩_)になり、
最後にケテル(アダムカダモーン=大日如来)を目指します。

カバラーが願望実現の道具として役立つのは、さまざまな願望を整理整頓する思考法があるからです。

問題を四階層にわけ、自己に問い詰める(自問自答)ことにより、自己の欲望分析がなされます。
カバラーの世界は活動界・形成界・想像界・元型界の四つに分かれます。

形成界以上の上位世界は天使がコントロールする世界であり、ここで密教の世界観と結びつくのです。
その世界を実感するためには、一定の密議を通してある大きな力と結び付く必要があるのです。

その世界観は「四大(地水火風)が万物の中に浸透している。」という宇宙観です。

人体も宇宙も四大の支配にあり、「天にあるものは地にあるもののごとく」As above so below なのです。
これを仏教では「梵我一如思想」と呼んでいます。

                       

あらゆる神は、あらゆる特殊なパワーの異名であり、
密議参入者は修行を通して「神や仏」が象徴するパワーに触れることになるのです。

ところが密議に参加しない一般の人々は、彫像や神像の表面を礼拝するに過ぎないのです。

体験が自己を変容させるのです。

コトバで話すことがすべてになっている表層世界を離れ、まず跳び込み、
体験重視の密教世界においでになりませんか?