埋蔵経
ユダの福音書
思考するフレーム・視点

一つのものを見つめるとき、その内部にいると全体像が発見できません。
対立するものを見つめることによって、そのものの輪郭が浮かび上がってくるのです。

キリスト教を、正統派と異端派(ユダの視点)から見ると
その思想が大きく浮かび上がってきます。

またキリスト教の物語を仏教的・密教的視点で見ると、
両者の共通点が明らかになるのです。

埋蔵経・ユダの福音書
The Gospels of Judas


チベット密教の祖師、パドマ・サンバヴァは廃仏の時代を見越して、
重要な経典を人里離れた地に埋めたそうです。
そして、その経典は必要な時代が来ると、この世に現れると言うのです。

そして西暦2000年をすぎた今このときに、エジプトの地からイエスの教えを書いた
「埋蔵経・ユダの福音書」が発掘されました。

そのパピルス写本は、1600年の間、エジプトの砂漠で眠っていた。
1970年代に発見され、2001年にようやく入手できたこの写本を解読して、
研究者たちは驚愕した。

これこそ初期キリスト教の時代以降、誰も眼にした事がなかった『幻の福音書』
−イエスの裏切り者、ユダの視点から語られた『ユダの福音書』だった。
そしてそこに書かれたユダは、悪役どころか英雄だった・・・・。

この福音書の存在は、以前から指摘されていました。
1945年、エジプト・ルクソール神殿から80キロ離れたナグハマディで
2世紀ごろ書かれた冊子本(コデックス)が発見されました。
ナグハマディ文書は、グノーシス思想をふくんだ文書でした。

それまでのグノーシス思想の情報については、
対立した原始正統派キリスト教会によって語られた、勝者の物語りでした。

「異端反駁」の中でリヨンの司教、エイレナイオスは
『・・・彼らはこうした架空の歴史をでっち上げ《ユダの福音書》と呼んでいる。』
と述べていました。

グノーシス思想


一部のグノーシス主義者は、イエスの復活を文字通り解釈するのは
「愚か者の信仰」だと主張した。

彼らの見解では、復活は過去に一度だけ起きた出来事ではなかった。
むしろ、それはイエスの存在を今も体験できることを象徴しているのだ。

大切なのは、ものを単に眼で見るのではなく、霊的に見ることである。

グノーシス主義で重要な意味を持つ天上の存在(アイオーン)、
ソフィアは男性神格のイエスと対になる女性神格である。

ソフィアとは、アイオーンや神格のうち、現世界に存在する神格を示す。
上位世界から転落して引き戻されたが、そのときに彼女の光の粒子がこの世界に、
そして人間の肉体の中に閉じ込められた。

グノーシス主義ではこれをソフィア、または智慧と呼んでいる。

女神から生れ落ちたソフィアという概念を産み出したのは、
古代ギリシャの哲学者だった。

哲学(フィロ・ソフィー)という語を最初に用いたのはピタゴラスだが、
もともとこの言葉は「智慧への愛」を意味する。

グノーシスとは「知っている」と言うことを意味する。
では彼らは何を「知っている」のか?
救済にいたる秘密である。

人はイエス・キリストを信じたり、善行をすることによって救われるのではない。
そうではなく、真理を知ることで救われるのだ。

私たちが生きている世界の真実、神についての真実、特に人間についての真実だ。

伝統的なキリスト教は、私たちのこの世界は唯一絶対の神が創造した、素晴らしい世界だと教えている。

グノーシス主義の教えはそうではない。
この世界を創造した神は、かなり下級の劣位で、多くの場合無知な神なのだ。
地震・暴風雨・洪水・飢饉・旱魃、身近に起きている災難を見て
この世界は素晴らしい世界でないと断言するのだ。

この責任を神に負わせることは出来ない。

この世界は宇宙の大失敗の産物なのだから、
救済は、この世界と物質の牢獄から逃れる方法を学んだ人だけが得られるのだ。

グノーシスの物語


最高神は物質性も特性も持たない完全な霊性なので、この世界から完全に離れている。
この神はアイオーンという多くの子孫を産んだ。

初めはこの神やアイオーンが住む神の国は、あまねく存在していた。

だが宇宙に大惨事が起こり、アイオーンの一つが神の国から落ち、その他の神々の創造へとつながった。

だから神の国以外の領域にも、神々は存在するようになった。
これら下級の神々は、私たちの物質世界を創った。

これらの神々は捕まえた神性の輝きを閉じ込めておく場所として、
この世界を創り人間の身体の中に閉じ込めた。
つまり特定の人間は、その中心部分に、神性の要素を宿しているのだ。

これらの人々は不死の魂を持ち、気まぐれで惨めな物質社会に一時的に閉じ込められている。
だからこれらの魂は、この物質世界を逃れて、神の国に帰る必要がある。

この真実を明らかにするために天から来た人が、イエス・キリストだ。
彼は内に神性を宿した人々に、救済に必要な秘められた真実を教える、
肉体の姿をまとった幻(ホログラム?)なのだ。

『ユダの福音書』の中でユダは「人間の霊は死ぬのですか?」とイエスに聞く。

人間には二種類あり、
「仕えることが出来るように」大天使ミカエルによって一時的に霊を授けられた肉体を持つ人々と、
大天使ガブリエルによって永遠の霊を与えられ、「何者にも支配されない偉大なる世代」に属する人だ。

ユダも神性の輝きを内に秘め、死後もと来た王国へと戻る一人だ。
それ以外の12使徒は前者に属する。
彼らは無知から「仕える」が、死ねばそのまま存在を終える。

ユダは12という数字の外にいる。
だからイエスはユダを「13番目」と呼んだ。
この福音書では、13は幸運をもたらす数字だ。


グノーシス思想と六道輪廻図

タロットの曼荼羅図

グノーシス思想を密かに伝承したマルセイユ・タロットは、
意識の成長を22枚のマンダラで表現します。

愚者が21段階の成長を遂げる旅を行います。
それは人間界、天使界(菩薩界)、神の国(如来界)の三段階です。

8番の正義は二元論的・不動明王です。
9番の隠者(老賢人)を過ぎ、12番の吊るしを過ぎ
名前のない13番(死神)に至り
14番の節制(天使)に成長し神の国に入るのです。

グノーシス思想を信じる人々は、このようにして現世に執着することなく、
火あぶりの刑(死神)を受け入れたのです。

なぜならば、この世は低位の神の造った世界だからなのです。


六道輪廻図

虎の皮のパンツをはいた異様な存在が、輪をかじっています。
これがチベットの六道輪廻図です。
彼の名前は「ヤマ」、日本では閻魔大王と呼ばれます。

私たちの世界はこの低いレベルの神が支配しているのです。
私たちは中央にある、貪欲・怒り・愚かさが原因となり、六道を輪廻し続けます。
死ぬと霊魂は地獄・餓鬼・畜生・人間・阿修羅・天の六道に再生してしまうのです。

えっ・・再生したいですって?
う〜ん、出来たら、天(天皇・王室・支配者)や阿修羅(超能力者)に再生したいですって?
そうですね、日本のほとんどの人々はそう思うでしょうね・・。

でもこの世界は「ヤマ」という低位の神が創ったものなのです。
いつまでたっても完全な平和を得ることは出来ません。

・ ・・完全な平安を得たいと思いませんか?
そうするにはどうしたら良いのでしょうか?

永遠の平安を得るためには、この世から離れ、上位の神の創った世界、
たとえば阿弥陀の浄土に再生するしかないのです。

これを解脱と言うのです。

解脱とは最高の幸せを得る方法です。

そのためには、まずこの世に真実を知り、
現世を否定することから始めなければなりません。



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イエスと弟子の会話


過ぎ越しの祭りの三日前、弟子たちが着席し感謝の祈りを捧げていると、
やってきたイエスが声を立てて笑う。

弟子たち 「先生、感謝の祈りを捧げる私たちを笑うのですか?
       正しきことを行っていたのですが。」

イエス 「あなた方のことを笑ったのではありません。
     あなた方は自らの意思によってではなく、
     あなた方の神をたたえるために、祈りを捧げているのです。」

《注:生かされていることに対する感謝は、この世の低位の神に捧げる祈り。
 グノーシスの叡智はこの世は低位の神が造ったものと考えている。
 イエスは上位の神・世界から使わされた存在》

弟子たち 「先生あなたは・・・・私たちの神の子です。」

イエス 「どうして、あなた方は私をわかっているというのですか?
     本当のことを言いますが、いかなる世代でも、
     私をわかるという人はいないでしょう。」

弟子たちは怒りを覚えた。

イエス 「なぜあなた方は怒りを感じるのですか?
     あなた方の内にいる神・・・完全なる人を取り出して私の眼前に立たせなさい。」

弟子全員 「私にはそれだけの勇気があります。」

口ではそう言いながらも、誰もイエスの前には立とうとしなかった。
そのときユダだけがイエスの前に立った。

しかし彼はイエスの眼をまっすぐに見る勇気は持たなかった。

ユダ 「あなたが誰か、何処から来たのか私は知っています。
    あなたは不滅の王国バルベーロー(あらゆるものの神聖なる母である)から来ました。」
    「私にはあなたを遣わした方の名前を口にするだけの価値がありません。」

イエス 「来なさい。
     いまだかって何人も眼にしたことのない秘密をお前に教えよう。
     それは果てしなく広がる永遠の地だ。
     そこには天使たちでさえ見たことがなく、あまりにも広大で、目に見えず、
     いかなる心の思念によっても理解されず、いかなる名前でも呼ばれたことのない
     『み国』がある。」

二人だけになるとイエスはユダにこう告げる。

イエス 「お前はそこ(み国)に達することは出来るが、大いに嘆くことになるだろう。」

ユダ 「そういったことについてあなたはいつ私に教えてくれるのですか?」

イエスは謎のごとく立ち去ってしまう。

翌朝、戻ってきたイエスは弟子たちの前に再び姿を現す。
そしてユダに向かって言う。

イエス 「お前は真の私を包むこの肉体を犠牲とし、
     すべての弟子たちを超える存在になるだろう。」

弟子たち 「今この地上の王国には存在しないが、私たちよりすぐれ、神聖なあの世代とは
       何を意味しているのですか?」

イエスは笑い出すとその秘密の場所と時に到達するのがいかに難しいか、詳しく語った。

イエス 「死をまぬかれない生まれのものは、そこへはいけない。」
     「あなた方が見た、生贄の牛は、あの祭壇の前であなた方に道を誤らせる人々なのです。」
     「恥知らずにも、私の名において実らぬ木々を植える人々がいる。」

     「あらゆるものの主であり、命じることのできる主が、最後の日にその人々を裁くであろう。」
 
---------中略---------


ユダ 「先生あの世代は一体どのような実りをもたらすのですか?」

イエス 「人間の魂はやがて死んでしまうものです。
     だが、み国の時を成就した人々の霊魂は彼らから離れます。
     肉体は死んでも魂は生き続け、天に上げられるでしょう。」

ユダ 「その他の世代の人々は何をもたらすのですか?」

イエス 「実りを得たければ岩の上に種をまくことはできません。」

時が過ぎ、ユダは自分の見た幻について質問する。

ユダ 「先生、(他の弟子たち)皆の話に耳を傾けるなら、私の話も聞いてください。
    とても奇妙な幻を見たのです。」

イエスは再び笑う

イエス 「13番目の聖霊であるお前が、どうしてそんなに躍起になるのですか?
     それはそれとして、さあ、話してごらんなさい。
     私はお前の話を信じるでしょう。」

ユダ 「あの12人の弟子たちが私に石を投げて(私のことをひどく)虐げるのです。
    (大きな家)を見ました・・・。たくさんの人々がそこへ向かって走っていきます。・・。
    家の中央には(大勢の)人がいます。
    先生、私を連れて行ってあの人々の中に加えてください。」

イエス 「ユダよ、お前の星はお前を道に迷わせてしまった。
     死をまぬかれない生まれのものは、お前が見たあの家の中へ入るに値しない。
     あそこは聖なる人々のために用意された場所なのだから。」

ユダ 「先生やはり私の種(霊的な部分)は支配者たちの手中にあるというのですか?」

イエス 「来なさい・・・。だが『み国』とその世代の人々を見れば、
     お前は深く悲しむことになるでしょう。」

ユダ 「私がそれを知るとどんな良いことがあるのでしょうか?
    あなたはあの世代のために、私を特別な存在にしたのですから。」

イエス「お前は13番目(の聖霊)となり、後の世代の非難の的となり
    -―そして彼らを支配するだろう。
    最後の日には、聖なる世代へと(旅立つ)お前を彼らは罵るだろう。」

イエスは自分を引き渡し犠牲となるようユダに求めているのだ。
そのわけは徐々に明らかになっていく。

イエスの地上における人としての生は、うわべだけのものに過ぎない。
その人間は内に存在する霊を、覆い隠す衣装のようなものである。

イエスは永遠なる存在であり、より高次の神の一部である。
人間とは異なる偉大な存在であり不滅なのだ・・・・・・・。

イエス 「見なさい、前にも告げたように雲とその中の光、それを囲む星星を見なさい。
     みなを導くあの星が、お前の星だ。」

こうしてユダは自分の特別な立場を確信する。
そして重大な瞬間がやってくる。
新約聖書の四福音書の記述にも劣らない、強烈で劇的な瞬間だ。

――ユダは眼を上げると明るく輝く雲を見つめ、その中へと入っていった。――

ユダの福音書を追え:ハーバート・クロスニー著 
ユダの福音書:ロドルフ・カッセル他著(日経ナショナルジオグラフィック社)より抜粋
歎異抄と親鸞


浄土真宗の開祖・親鸞聖人の世話係だった唯円は、先生が人々に
「念仏すると嬉しくなるよ、極楽浄土は素晴らしいところだよ」
と説いているのを聞いていました。

しかし自分が念仏を唱えても、嬉しい心も起こらず、
死んでから行く浄土など、全然行きたくないと思っていたので、
あるとき恐る恐る先生にお伺いを立てたのです。  

唯円 「え〜先生。先生の良いとおっしゃるお念仏なのですが、
    唱えていてもどうしたわけでしょうか、嬉しい喜びの気持ちが沸いてこないのですが?
    それに・・・楽しいはずの極楽浄土に、早く行こうとも思えないのですが・・・。
    これは一体・・どうしたことでございましょう?」

親鸞 「唯円おまえもか!!実は私もそうなんだよ。行きたくないんだよ。」

唯円 「えぇ〜・・だって先生、浄土はいい所だって言ってるじゃないですか。」

親鸞 「よく考えてごらん。喜ぶべきことを、喜ばなくさせているのが煩悩なんだよ。
    でも、だから私たちは煩悩に染まっている。(洗脳されている)という証明になりはしないかね?」
    「人は言い続けられると、そう思ってしまうんだよ。」
    「宗教的価値観(死は成仏)と現世の価値観(死は忌み嫌うもの)はまったく反対のもので、
     般若心経でも悟ったときには顛倒夢想になると言うじゃないか?」

(歎異抄第九条)


親鸞はパラドクス(逆説的)表現の名手です。
歎異抄の第三条を見て見ましょう。

善人ですら極楽浄土へ行くことができるのだから、悪人が行けないわけはない。

私はそう思いますが、世の人は常に反対のことを言います。
『悪人ですら極楽へ行くことが出来る、まして善人が極楽へ行くのは当然だ。』

この説は本願他力の教えに反しているのです。
自ら善を励み、自分のつくった善によって往生しようとする人は、
おのれの善を誇って、阿弥陀仏にひたすらすがる心が欠けています。
自力の心を捨てて、もっぱら他力を信ずれば正真正銘の浄土へ行くことができます。

イエスは感謝を捧げている弟子たちを見て
「あなた方の神をたたえるために、祈りを捧げている。」と笑いました。
ここには善人になろうとしている12使徒が浮かび上がってきます。

ところがグノーシス思想においては、この世を作った神は下級の神なのです。
人間は心の中にソフィー(智慧)を取り戻すことによってしか救われないのです。

仏教ではソフィー(智慧・如来・神性・光明)は全員に内在しているが、
煩悩をはずさないと気付かないと考えています。

グノーシス思想では一時的に霊(ソフィー)を与えられたものと、
永遠に与えられているものに別れます。
一部の人々だけに与えられていると考えています。
ここがグノーシスと仏教の違いです。

このような文章の書いてある『歎異抄』は、
浄土真宗三代目の蓮如上人によって禁書とされてしまいました。
パラドキシカル(逆説的)な宗教的確信の書いてある文章は誤解されがちです。

普通の意識レベルの人には理解することができないのです。
エイレナイオス司教の異端反駁もそのようにしてなされたのでしょう。

せけんこけ ゆいぶつぜしん
世間虚仮・唯仏是真


摂政(今の総理大臣)聖徳太子はこのような言葉を残しています。
世間虚仮・唯物是真とは英語で、
The world is illusion, Buddha world is real.になります。
この世は仮想現実であり、仏陀(光の世界・浄土・み国)の世界こそ真実の世界である。

物質世界の頂点(総理大臣)に立った聖徳太子が、
現世否定のこのような深い精神性の言葉を残しているのです。

その精神的伝統を受け継ぐ日本人こそ、内在するソフィーを発見し、
これから迎える世界的危機に立ち向かえる民族なのではないでしょうか?