西欧の「愛」と東洋の「慈悲」の違いについて

私達はいま西欧個人主義の時代に生きています。

原子を素粒子に分解すれば、その真実を解明できるという
物理学上の幻想は拭い去れているにもかかわらず、


人間を「個人」すなわち他の何者にも影響されない(外部につながっていない)自我を持つ存在 
と考える見方がかなりの影響力を持っています。

このような人間観を乗り越える思想が、仏教を始めとする東洋哲学の中に存在します。


仏教は人間の基本を「人が他者に対して持つ愛情=慈悲」と考えます。

ここでの「愛」とは人と人のつながりであり、他者と一体化する原動力となる感情のことです。

なぜ他者を愛するかと考えると、「自分と他者を同じもの」と考えるからなのです。
誰でも自分のことを一番愛しているのです。(天上天下・唯我独尊)

だから他者とのつながりが分かっていて(智慧)、
自分を愛することの出来る人は「人を害してはならない」と考えるのです。

ところが他者とのつながりが分かっていない(西欧個人主義の)人が、人を愛すると
「愛するもの」「愛していないもの」という二元論に陥り、排他的になりがちです。

このような愛を仏教では渇愛(かつあい)と呼び否定するのです。

東洋哲学では愛の対象がつながっているすべて(生きとし生けるもの)におよぶため、
「慈悲」により人間は他者との壁を超えることが出来ると考えます。

それは「個人」の存在の背後には多くの縁があるという存在論(一即多・多即一)
を知っているからです。

私達日本人は「おかげさま(他力思想)」「おたがいさま(因縁の思想)」
「ありがたし(自己の発見)」など、多くの東洋哲学思想を含蓄した言葉を何気なく使っています。

私はこのような思想を意識化することにより、
現代世界の陥っている病理現象を一挙に解決できると信じています。