大自然こそが・・・寺院(教会)である

修験道(役の行者・空海)と、寺のいらない仏教(法然)と、教会のいらないキリスト教(内村鑑三)

仏教は、飛鳥仏教・奈良仏教・平安仏教・鎌倉仏教と変化してきました。

飛鳥仏教は聖徳太子の仏教です。
奈良仏教は政治権力と結びついた玄肪・道鏡の仏教です。
平安仏教は最澄・空海の仏教です。
鎌倉仏教は、日蓮・法然・親鸞の仏教です。

仏教が招来されたことにより、物部守也、蘇我入鹿は対立の道具として利用しました。

その論理性に魅惑されたのは、摂政である聖徳太子でした。
しかし蘇我入鹿にとっては、仏教は支配の正統性を求めるための道具に過ぎなかったようです。

奈良仏教は藤原氏の寺、興福寺が法相宗であるように、学問寺として栄えました。
しかし政治に介入し桓武天皇の不興を買うようになったのです。

そこで桓武天皇は、京都の比叡山で修行をする最澄に、
反・奈良仏教のリーダーの役割を期待しました。

その後、唐から密教をもたらした最澄と空海により、
複雑な儀式性(護摩)を持った密教は貴族の仏教として流行しました。

しかしその密教も、時代とともに阿弥陀如来信仰(極楽往生)の流行に押されて変容します。 


「この世をば わが世とぞ思う 望月の 欠けたることの なしと思えば」



藤原道長は、末法の世では阿弥陀如来の浄土に行けないと思いました。

そこで阿弥陀の浄土のモデルの平等院をつくり、北枕で、西に向いて、
阿弥陀仏と自分を赤い紐で結んで、極楽往生を願ったのです。

ところが一般庶民は、寺社仏閣を作る(布施)金もなければ、阿弥陀仏を見たこともありません。

六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)=覚りに至る修行・・・
など関係のない生活をしていました。

その人々に対して、天台宗の高僧であった法然は、無・寺院主義の教えを広め始めたのです。
(選択本願念仏集)

これは明治時代にキリスト教徒、内村鑑三が「無教会主義」により、
十字架や教会が必要ないと言い出したことと同じです。

法然は、寺院はおろか、仏像も要らないというのです。

法然の出した結論は
「草木・国土・悉皆成仏」「一切衆生・悉有仏性」という教えです。

生きとし生けるものが、仏性を持っているというのです。

これはアニミズムが自然信仰が、仏教の形を借りて理論武装した日本人特有の考え方なのです。

         

この考えを受けて、弟子の親鸞は「悲僧・非俗」と宣言し、僧の権威を否定しました。

このような宗教改革により始まった、浄土教ですが、法然・親鸞亡き後、
再び弟子たちにより権威に祭り上げられてしまいました。

組織は、機能体(役に立つ)として始まり・・・共同体(内側の仲間のため)化という宿命を負っているようです。

しかしキリスト者内村鑑三においては、無教会の天井は、天空であり、青空です。

夜になると星が瞬く天井が、無教会の天井です。
無教会の床は、緑の野原であり、無教会の祭壇は雪を被った山岳です。

無教会における音楽は、小鳥のさえずりであり、松の梢の風の音です。

林を歩くとき、汀を散歩するとき、神は語りかけてくるというのです。


これこそが、平安時代以来の修験道の精神でもあるのです。

自然をコントロールできるという考え方は、キリスト教の考え方です。

日本人の自然観は、地震・噴火・津波・台風・雷を恐れ敬いながらも、
自然の作り出す造詣に、憧れと賛美を欠かせません。

この自然崇拝の信仰こそが、修験者である空海が、民衆を思う法然が、
そしてキリスト者である内村鑑三が感得しえた、日本の思想なのです。

山に神が宿る(自然崇拝)とは、都会化を防ぐ里山を守り、自然と人間が共生する
深い深い思想なのです。

鎮守の森を守ることが、人の思いあがりを防ぐ大いなる思想になるのです。