「坂の上の雲」から「下山の思想」へ
全日本仏教会の宣言



「誰かの犠牲もういらぬ!!」

・・・・保守的といわれる伝統仏教教団の「全日本仏教会」が原発反対をしました。 

                                 
                                  ――― 東京新聞12月11日号

「原発はいらない」   全日本仏教会宣言文:全文 2011.8.25

東京電力福島第一原発事故による放射性物質の拡散により、多くの人々が住みなれた故郷を追われ、避難生活を強いられている。

乳幼児や児童を持つ多くのご家族が、子供たちの放射線による健康被害を心配している。

私たち全日本仏教会は、「いのち」を脅かす原発への依存を減らし、原発によらない持続可能なエネルギーの社会を目指す。

『誰かの犠牲の上に成り立つ豊かさ』を願うのではなく、個人の幸福が人類の福祉と調和する道を選ばなくてはならない。

自身の生活のあり方を見直す中で、『過剰な物質的欲望』から脱し、足ることを知り、

『自然の前で謙虚である』生活の実現に向けて、最善を尽くし、一人一人の「いのち」が守られる社会を築くことを宣言する。

                                  
                         全日本仏教会会長 河野太通



坂の上の雲:司馬遼太郎



新聞を読んだのは2011年12月12日の昼でした。
その前夜にNHKのドラマ「坂の上の雲」を見ながらさまざまな疑問が浮かび上がっていました。

主人公の秋山好古・秋山真之兄弟は江戸から明治に変わる頃、貧しい伊予・松山藩に生まれました。

その彼らがさまざまな苦難を克服しながら、「坂の上の雲」をめざし世界的に有名な軍人に成長していく物語です。

その日のテレビでは16000人の死者を出しても攻略できなかった旅順要塞(乃木希典)から、
秋山真之の進言していた203高地へ攻撃目標を変更する経緯が語られていました。
旅順陥落までに7ヶ月の日時と56000人の死傷者が出たのです。

戦争で得た土地と産物は、『誰かの犠牲の上に成り立った豊かさ』なのです。

『いのち』を脅かすのは戦争も原発も同じです。 


脱亜入欧:福沢諭吉の思想



明治維新当時、世界の国際秩序は西欧列強による植民地獲得競争の時代でした。
アジア・アフリカの有色人種の国は、ほとんどが西欧諸国の植民地・属国・勢力下にあったのです。

そのような時代に、日本はいち早く植民地化の危機を逃れ、
開国・西欧化・殖産振興に成功した唯一のアジアの国でした。

しかしこの日本の成功は、それまでアジアから受け継いできた文化を否定し、
中国や朝鮮にたいするべっ視(遅れている)の感覚を醸成しました。

脱亜入欧にはキリスト教的一神教の思想支配が有効です。

そこで明治政府はイエス・キリストの代わりに天皇を神とする天皇制を構築し、
人々が国民であるという国家意識を強制しました。

国が豊かになることが、国民が豊かになることだったのです。

そのための犠牲として、「いのち」が失われました。

脱亜入欧は和魂洋才(一神教思想)となり、富国強兵(善悪二元論)の道を進まざるを得なくなったのです。
アジアべっ視は西欧崇拝の裏返しなのです。

経済が世界第二位になった頃、このような日本人を隠語で「Yellow Banana」と呼んでいました。
肌は黄色いのに、中身は白人ぶっているコンプレックスのあるアジア人ということです。

自らのアイデンティティ(帰属意識)を見つめることなしに、本当の心の幸せが訪れるはずはありません。


下山の思想



「全日本仏教会の宣言」が出ている新聞下の広告欄に「下山の思想:五木寛之」と出ていました。

50年間山に登っている私にとって、下山は重要なコトバです。
さっそく購入し読んでみました。


『私たちは明治以来近代化と成長を続けてきた。

 それはたとえて言えば山に登る登山の過程にあったといえるだろう。

 だからこそ世界の先進国に学び、それを模倣して成長してきたのである。

 しかしいまこの国は、いや世界は、登山ではなく下山の時代に入ったように思うのだ。』 〜P16



十年も前から過当競争で傷ついた欧米人がチベット密教の修行道場「コパン寺院」に学びに来ていました。

共産主義がなくなってしまった現在、アメリカ型競争社会に対抗出来るのは仏教思想だけになってしまったようです。


『私たちはすでにこの国が、そして世界が病んでおり、急激に崩壊へと向かいつつあることを肌で感じている。知っている。感じている。

 それでいて知らないフリをして暮らしている。感じていないフリをして日々を送っている。

 明日のことは考えない。考えるのが耐えられないからだ。

 いま現に進行している事態を、直視するのが不快だからである。

 明日を創造するのが恐ろしく、不安だからである。』 〜P14




『「民(たみ)」という文字には残酷な意味がある。

 「漢字源」によれば《眼を針で刺すさまを描いたもので、眼を針で突いて見えなくした奴隷をあらわす。



(中略)物のわからない多くの人々、支配化におかれる人々の意となる》と述べてある。』 〜P16




『私たちは漢字が出来た当時と同じように、支配者から情報を操作され見えなくさせられている。

国は、民の眼に針を刺す存在である。

「知らしむべからず」というのは、古代から国家統治の原点だったといっていい。

しかし私たちは、いまや国に頼らなければ生きてはいけない。

国家の保障する旅券を持たなければ、隣国さえも行けないのだ。

だからこそ、私たちはこの国の行方に眼をこらさなければならないのである。』 〜P16



少欲知足:足るを知る



経済的発展を追い求め、「坂の上の雲」を見続けた時代は終わりました。

いままでの人生でどんなに物質(お金)に満たされていても、心が豊かにはなれないと学んだのです。
少欲知足の仏教思想は、このような時代にこそ求められているのです。


全日本仏教会の『自然(ジネン)の前で謙虚である』が示す自然(ジネン)とは、
浄土教では二上山に落ちる夕日に喩えた、阿弥陀如来。

また華厳宗では宇宙の存在・毘廬遮那佛(ビルシャナ・ブツ)、天台宗では山川草木であり、
真言宗では大日如来(宇宙仏)のことなのです。


どれもこれも言葉は違えど「宇宙を動かしている摂理」のことを言っているのです。


この自然(ジネン)の働きを『想定外』などというコトバで言い逃れた人々がいます。

自然(ジネン)こそが神仏の働き(宇宙の摂理)なのです。

その働きを人間程度の頭脳で理解できるという思いあがりが、今回の悲劇を生んだのです。

「自然の前に謙虚であるべき」なのです。


下山の道を探す



私はたびたびヒマラヤ地方(チベット・ネパール・インド)に行きます。

そしていつもここに住む人々が、『自然の前で謙虚であり』、『過剰な物質的欲望から脱し』、
宗教性のあふれた生活をしている姿に感激しています。

その生活する姿を見たとき、サステイナブル(持続可能な社会)な世界とは、このような世界であると思いました。

先般日本人に感激を与えたブータン国王ご夫妻も、「チベット仏教徒」です。


これからは、『坂の上の雲』をあこがれ必死に登る生活ではなく、
経済力がなくとも、時間豊かに暮らしているヒマラヤ地方の人々の生活を手本にして、
のんびりした『下山の道』を歩んでいけば良いのではないでしょうか?