原始仏教の美しい言葉

(ブッダの言葉・悪魔との対話・神々との対話   中村元訳/岩波文庫より)

蛇の毒が広がるのを薬で制するように、
怒りが起こったのを制する修行者は、この世とかの世とを共に捨てる。

――― 蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

無花果(イチジク)の木の林の中に、花を捜し求めても得られないように、
もろもろの生存状態のうちに堅固なものを見出さない修行者は、
この世とかの世を共に捨てる。

―― 蛇が脱皮して旧い皮を捨てるようなものである。

走っても早すぎることなく、また遅れることもなく
「世間における一切のものは虚妄である」と知って迷妄(メイモウ)を離れた修行者は、
この世とかの世とを共に捨てる。

―― 蛇が脱皮して旧い皮を捨てるようなものである。

この世に環り来る縁となる(煩悩から生じるもの)をいささかも持たない修行者は、
この世とかの世を共に捨てる。

―― 蛇が脱皮して旧い皮を捨てるようなものである。

五つの蓋い(貪・瞋・痴・疑・慢)を捨て、悩みなく、疑惑を超え、
苦悩の矢(欲情・嫌悪・迷妄・高慢・悪見)を抜き去られた修行者は、
この世とかの世を共に捨てる。

―― 蛇が脱皮して旧い皮を捨てるようなものである。

仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも旅するにも、常に人に呼びかけられる。
他人に従属しない独立自由を目指して、犀の角のようにただ一人歩め。

四方の何処にでもおもむき、害心あることなく、何でも得たもので満足し、
もろもろの苦難に耐えて、恐れることなく、犀の角のようにただ一人歩め。

金の細工人が見事に仕上げた二つの輝く黄金の腕輪を、
一つの腕にはめれば、ぶつかり合う。
それを見て、犀の角のようにただ一人歩め。

このように二人でいるならば、我に饒舌といさかいが起こるであろう。
未来にこの恐れがあることを察して、犀の角のようにただ一人歩め。

実に欲望は色とりどりで甘美であり、心に楽しく、種々のかたちで心をかく乱する。

欲望の対象にはこの憂いのあることを見て、犀の角のようにただ一人歩め。

森に住んで

傍らに立って、かの神は次の詩句を持って、尊師に呼びかけた。

「森に住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食取るだけであるが、
 その顔はどうしてあのように明朗であるか?」

尊師いわく

「彼らは過ぎ去ったことを思い出して悲しむこともないし、
 未来のことにあくせくすることもなく、ただ現在のことだけで暮らしている。
 それだから顔色が明朗なのである。

 ところが愚かな人は、未来のことにあくせくし、過去のことを思い出して悲しみ、
 そのために萎れているのである。
 ―――刈られた緑の葦のように。」

歓喜の園

傍らに立って、かの神は、尊師のもとで、この詩句を唱えた。

「子あるものは子について喜び、また牛のあるものは牛について喜ぶ。
 執着するよりどころによって、人間に喜びが起こる。
 執着するよりどころのない人は、実に喜ぶことがない。」

尊師いわく

「子あるものは子について憂い、また牛のあるものは牛について憂う。
 執着するよりどころによって人間に憂いが起こる。
 実に執着するよりどころのない人は、憂うることがない。」

光明

神が問うていわく

「世にはいくつの光明があって、世を照らすのですか。
 あなたにお尋ねしたいと思ってきたのですが、
 我らはそれをどうしたら知ることが出来るでしょう。」

尊師いわく

「世には四つの光明がある。ここに第五の光明は存在しない。
 昼には太陽が輝き、夜には月が照らし、また火は昼夜にあちこちで照らす。
 正覚者(ブッダ)は熱し輝くものの内で最上の者である。
 これは無上の光である。」

悪魔

あるとき尊師はネーランジャ河の岸辺の、大樹のもとにとどまり静かに瞑想しておられた。
尊師が思われた。

「私はもはや苦行から解放された。
 解放されたのは良いことだ。
 私が安住し、心を落ち着けて、さとりを達成したのは良いことだ。」

そのとき悪魔・悪き者は尊師が思われたことを知って、尊師のところに赴き、
詩によって語りかけた。

「人々は苦行によって清められるのに、その苦行の実行から離れて、 
 清浄に達する道を逸脱して、清くない人が自ら清浄と考えている。」

尊師いわく

「不死に達するための苦行なるものは、すべてためにならぬものであると知って、
 乾いた陸地に乗り上げた、船の舵や櫓のように、まったく役に立たないものである。
 さとりに至る道――― 戒めと・精神統一と・智慧と(戒・禅定・慧)を修めて、
 私は最高の清浄に達した。破滅をもたらす者よ、お前は打ち負かされたのだ。」
 
そこで悪魔・悪しき者は、

「尊師は私のことを知っておられるのだ。幸せな方は私のことを知っておられるのだ」
と気付いて、打ち萎れ、愁いに沈み、その場で消えうせた。

認識の領域

あるとき尊師はヴェーサリー市の大講堂にとどまっておられた。
そのとき尊師は六つの〈接触の領域〉に関して諸々の修行者たちに講話によって説き示し、
勧め、励まし、喜ばせた。

そのとき悪魔・悪しき者は修行者たちを幻惑してやろうと考え、尊師に近づいた。
そして、大きな恐ろしいぞっとするような声を出した。
実に大地さえも開き裂けると思われるほどであった。

恐れを感じた修行者に尊師は言った。

「修行者よ、これは大地が引き裂かれるのではない。
 これは悪魔・悪しき者が、そなたらを幻惑するためにやってきたのである。」

そこで尊師は悪魔・悪しき者に向かって詩をもって語られた。

「色、形と、音声と、味と香りと触れられるものと、ひとえに思考の対象たるものと、
 ――これは世の人をおびき寄せる恐ろしい餌である。
 世に人はそれにうっとりして、まともに受けている。
 ブッダの弟子はこれを超越して気をつけていて、悪魔の領域を超えて、
 太陽のように輝く。」

そこで悪魔・悪しき者は

「尊師は私のことを知っておられるのだ。幸せな方は私のことを知っておられるのだ」
と気付いて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消えうせた。

般若心経と映画マトリックスの見解

認識の対象:六境(ロクキョウ)----色(かたち)・声・香り・味・触覚・現象(法)
認識器官:六根(ロッコン)--------眼・耳・鼻・舌・身・意識

般若心経では無・眼・耳・鼻・舌・身・意・・・無・色・声・味・触・法と
感覚器官も感覚対象も無いという。
感覚器官(主体)と感覚対象(客体)が執着を創っている。

これを映画マトリックスでは、感覚器官は
背中に結び付けられたプラグによって表現される。

電気信号が送られてくると、その電気信号によって、
感覚対象・映像や、音や、香りがあるように思ってしまう。
電気信号によって仮想現実世界を創られている。

眼も耳も鼻も触覚も感じる、良く出来たゲームセンターのF1レースのように
真実だと思ってしまう。
あなたはゲームに夢中になっている、ゲーマーなのだ。

あなたがプラグをはずして、情報を遮断すると、
ゲーマーを取り囲んで、彼を見ている観察者になれる。

瞑想・禅定・三昧(サマーディー)とはそのような状態だ。