複雑系科学と密教

複雑系の科学は、この世は開放系だという。
そして人間も開放系だから、自己と自然環境は循環している。
開放系だ。

コップの水は飲むと自分になる。
体重の70パーセントは水分だそうだ。

飲んだ水は川となり、海となり蒸発して雨になる、木々を潤して果物になる。
食べればまた自分になる。

自他は分けられるのだろうか?
どこまでが自分でどこまでが自然なのだろう。

東洋思想は自他不二というが、西洋思想は「ワレ・思う、故にワレあり=デカルト」という。
彼の思想が近代社会の矛盾を作りだした。

宇宙とは何か

人間は宇宙の中心か?――宇宙の人間原理


夜空の星を仰ぎながら、私という存在が宇宙の塵のように小さく、
無意味な存在のように感じた経験を持っている人は少なくないだろう。

地球は天の川銀河の中に浮かんでいる。
この銀河には4000億個ほどの恒星があり、太陽はその一つに過ぎない。
そして宇宙には天の川銀河と同じような銀河がさらに数千億個も存在しているという。

これほど広大な宇宙の中で、私という存在にどんな意味があるのだろうか?
 
そんなニヒリズムに陥っている人が「宇宙は人間のために存在している」
という話を聞いたら、どう思うだろう。
神話でも、おとぎ話でもなく、現代宇宙論の有力な仮説がそう語りかけているのである。

密教:

外部宇宙と内部宇宙。唯識において世界は認識が作っていると説いた仏教は、
如来蔵により世界(宇宙)は人の心であると喝破した。

精神と物質が分けられないということを、仏教は相即相入、六大瑜伽、空・仮・中・三諦円融などと説いた。
すべては溶け込んでいるのである。

宇宙は無数に存在する―――多世界解釈

 

量子力学は、二十世紀の科学界の最大の成果の一つとされている。

実際テレビからパソコンまで身の回りのありとあらゆる現代の電子機器は、
この輝かしい理論をもとに設計され、製造されている。

ところが量子力学が扱うミクロの世界は、われわれが普通に認識している現実世界とはかなり様子が違う。

端的に言えば、原子や電子はいくつもの状態が重なっているにもかかわらず、
誰かが観察した瞬間、一つの状態に定まってしまうのである。

これをどう解釈すべきか。
量子力学が誕生してすでに70年以上もたつのに、その定説がいまだにない。

あくまで論理的に考えれば、世界がいくつもあるという「多世界解釈」が
最も合理的だということになるのだが・・・・・。

密教:
同時に存在する多数の世界。
一即一切重々無尽と華厳経では説く。

東大寺の大仏が座っている台座には蓮華の花が描かれ、その花びらの中にまた大仏が描かれている。
多層世界なのである。

この世はさまざまな仏の支配する世界。阿弥陀世界や薬師世界が広がっているのだ。

すべての時空間はつながっている―――シンクロニシティ


下駄の鼻緒が切れたら、親しい人に人災がふりかかる。
くしゃみをしたら、誰かが自分の噂話をしている・・・
こんな言い伝えを、普段は迷信と思って気にかけない人は多い。

しかし遠く離れた場所で不思議な偶然の一致が起こったり、
不吉な予感がして外出しなかったために災難を免れた、などの実話は現代でも話題になる。
知人のことを考えていたら街角でばったり本人に出会った、といった経験を持つ人も少なくないだろう。

これらの出来事は単なる偶然に過ぎないのだろうか。
それとも自然の中に、何らかの未知なる仕組みが隠されているのだろうか。

ユング心理学や《気》をめぐる哲学的な解釈を通じて、湯浅泰雄さんはその謎に迫ろうとしている。

密教:

密教行者は身口意の三密を仏の三密に変えることにより、現象を変化させようと祈る。
現世に起こる現象の背後で動かしている、大いなる力を認め、そのものとコンタクトするのだ。

そのものを真言密教では大日如来と名付けている。

「自己」と「他者」が出会う場所―――自他非分離


近代科学は、「自己」と「その他のもの」を切り離して考える方法論に頼ってきた。
観察する主体があり、それとは別に観察される客体がある。
その二つを明確に切り離さなければ、科学的に観察も記述も出来ない。
客観的な真理の探究にこの方法は不可欠だ、と科学者たちは信じてきた。
 
この「信仰」が、環境問題をはじめとする現代文明の危機に直面して揺らいでいる。
環境問題もいずれ「科学テクノロジー」によって解決できると考えている人も少なくないが、
清水博さんは生物物理学の観点から、「自他を分ける方法論そのものを乗り越えない限り、
文明にも科学にも未来はない」と断言する。
 
自他を分けない「自他非分離」の方法論による新たな科学の展開はあるのだろうか。


密教:

仏教は非二元論。生・死はなく、清い・汚いもなく、増・減はなく、善・悪はない。
もちろん自・他はない。文殊菩薩の剣(悟りの智慧)が、けろん虚論(二元論)を断つと言う。

認識とは何か

世界は意味にあふれている―――アフォーダンス


目の前にあるテーブルを、なぜテーブルと知覚できるのだろうか。
その理由を規制の知覚理論は「網膜が受ける刺激と、それを意味づける中枢(脳)」という考え方で説明してきた。
 
しかしこの理論では説明できないさまざまな現象が浮かび上がり、
人工知ロボットもうまく作動しないことが分かった。

テーブルはなぜテーブルなのか。
この基本的な知覚理論が今、見直しを迫られている。
 
新しい理論を求めて認知学の視点から、佐々木正人さんは「アフォーダンス」にたどり着いた。

脳が意味づけをする必要はない。
意味は環境の中にすでに埋め込まれている。

そう語るアフォーダンス理論によって世界を見る目がくつがえされた、と佐々木さんは言う。

密教:
唯識では、認識が世界を創っているという。
密教では言語が世界を創っているという。
声字実相(しょうじじっそう)とは、意識が波動を起こし、言語概念世界が現象化しているのだ

科学は一つの物語か―――パラダイム


「科学的な根拠」という言葉は、日常生活の中でもかなり説得力を持っている。
化粧品の効果について「科学的な根拠はあるの?」と問う若者もいれば、
健康についての世間話で「科学的な根拠がない健康食品は信用できない」などという年配者もいる。

科学がこれほどの信頼を得ている理由は、哲学や宗教と違って「科学」は客観的で、
普遍的な真理の一端を明らかにしてくれるものという信念のようなものが、
世間の隅々まで広がっているためだろう。

しかしこの信念の「科学的な根拠」は決して堅牢なものではない。

新科学哲学の構築を目指す野家啓一さんは、「科学」そのものの根拠を問い直した末に
「信念体系が変われば、真理も変わる」という。


密教:

どのようなパラダイムで、あなたは世界を、そして自分を見ているのだろう?

唯物論で洗脳された教育を受けた私たちが、インドやチベットの宗教世界に行くと、
自分のパラダイムが見えてくる。

宇宙の投影としての脳とこころ―――ホログラフィックな世界


心はどこにあるのだろうか。

この古くからの問題に対して、現代人の多くは「それは脳に決まっている」と答えそうだ。

しかしそう考えている人でも、自分の肉親が脳死状態になり、臓器移植のドナーになる決断を迫られたときに
「脳が死ねばこころも死ぬ」という理屈に納得できないケースが多いという。
 
それは、単に人情の問題なのだろうか。
それとも脳とこころの間には、いまだ知られざる関係があるのだろうか。

その探求の末に、濱野恵一さんが導かれた理論は、
脳とこころと宇宙をつなぐ、壮大な仮説に基づいたものだった。

脳はマンダラ構造をしており、それはこころを通じて宇宙の姿をそのまま映し取っている、
とその理論は語るのである。


密教:

左脳は言語野(論理脳)、右脳(芸術脳)は神仏と直結している。

真言の読呪・念仏は左脳の働きを止め、神仏とコンタクトする方法だ。
チベット密教ではマンダラを見つめることにより、覚りが開けるという。

「全体の一瞬による理解」があるのだろうか。

世界とは何か

共生の論理は科学を超える―――ガイア


金星や火星を長年にわたって研究していると、
地球とほかの惑星とのあまりの違いに心を奪われるものらしい。

地球を一つの生命圏ととらえるガイア理論と呼ばれる新しい地球観も、
火星と地球との比較研究の中から生まれてきた。

地球とほかの惑星の環境はなぜこれほど違っているのだろうか。
その分岐点を突き詰めていくと結局、生命が存在しているか、いないかという一点に行きつく。

では、惑星の環境を激変させてしまう生命とは、いかなるものなのか。

その探求の末に「型にはまった科学の論理だけでは、生命は理解できない」という結論に達した森山茂さんは、
西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」に生命活動の根源的な原理を見出した。


密教:

ヨガでも仏教でも行き着くところは梵我一如。
宇宙(神)と我は一つのようなもの。

でも自分が神であることを、なぜわれわれは理解できないのだろうか?

華厳とシュレディンガーの深層へ―――複雑系


「複雑系の科学」が注目されている。

これまでの科学も、複雑な自然現象を見事に説明することに成功してきたと一般には思われているから、
いまさら「複雑系」といわれてもピンと来ない向きもあろう。

しかし従来の科学はじつは、複雑なものを単純なものに置き換え、
その単純さを組み合わせたり、組み替えたりすることで複雑さは説明できると勘違いしていたのだ、
と「複雑系科学」は主張する。

では、単純化しないで、複雑なものをどのように理解するのか。

その方法論を求めて世界の先端化学者が頭を痛めているが、
中村量空さんは華厳経の「縁起」思想の中に、そのヒントを見出そうとしている。

平たく言えば「縁起が悪い」とか「ご縁がある」という思想が、
二十一世紀の科学に重要なメッセージになるというのである。


密教:

複雑なものを、複雑なまま理解しようとするには
現象を、言語世界と形態世界と微細エネルギー世界の集合体でとらえる方法が有効だ。

空海はこれを四曼荼羅と説いている。

真言行者は種子を観想し、形を観想し、仏を観想し、その奥の世界に触れようとする。

 参照「生きてゆくためのサイエンス」平野勝巳 (人文書院)