神話の力・2

〜〜「神話の力」ジョーゼフ・キャンベル&ビル・モイヤーズ(早川書房)より抜粋

永遠性の仮面


神話のイメージは私たち一人一人の、精神的潜在的可能性の反映です。

私たちはそれを冥想することによって、自分の生活にそういう力を呼び覚ますことが出来ます。

神秘体験をもったことのある人は、自分の五感では捕らえられない世界があることを知っています。

             

インドの聖典〈ウパニシャッド〉には、

「日没の、あるいは山の美しさの前で立ち止まり、『あぁ!!』と嘆声を発する人は、神性の中に入れる。」

そういう参入の瞬間は、存在の不思議さと純粋な美しさとの深い認識を伴います。

自然の世界で生きている人は、毎日そういう瞬間を経験します。

そういう人は人間の次元よりもはるかに偉大なものがあることを認識しています。


質問:プラトンが〈不滅にして聖なる想念〉と呼んだものに心を集中させる。そんなことが出来るとお思いですか?

答え:もちろん。冥想とはそれなんです。冥想とはあるテーマを絶えず思考することを意味しています。

     たとえばお金についての冥想も、完全に立派な冥想です。

     けれど孤独な冥想もあります。たとえば大聖堂に入って冥想する。


質問:すると祈りも実は冥想でしょうか?

答え:祈りは神秘とのかかわりであり、神秘についての冥想です。

   ローマ・カトリック教会で教えられる冥想の形があります。
   それはロザリオの祈りを、同じ祈りを、何度も何度も繰り返すのです。
   そうすることによって心が内面に引き戻されます。

   サンスクリット語ではこれを〈ジャパ〉と呼びます。

   「聖なる御名の繰り返し」という意味です。

   それは他の興味関心を締め出し、一つのことへの精神集中を可能にします。

   そして想像力の大小にもよりますが、その神秘の深さを体験することも可能になるのです。


答え:なぜか夢におびえてしまうことがありますね。

   私たちが心の啓示を把握するためには、自分が持っている神のイメージをいったん壊す必要があります。

   心理学者のユングがうまいことをいっています
   『宗教は神の経験に対する防御機能』なのだと。

   想像されたイエスのイメージを越えなければなりません。

   自分の神についてのイメージが結局は邪魔になる。

   もし自分なりのイデオロギー、自分のちっぽけな思考形態に固執していると、
   神についてのより大きな経験が近づいてきたとき、
   自分の心の中のイメージにしがみつくことによって、それから逃げてしまう。

   それは〈自己信仰の保全〉として知られている現象です。

内面への旅


神話に出てくるものの一つは、深遠の底から救いの声が聞こえて来るという考えです。

暗黒のとき、それは大きな変化が可能であるという真実のメッセージが今にも来るということです。

最も暗いときにこそ、光がやってくるのです。

           

質問:神話が私の心に語りかけるのは、私の存在の基礎である、多くの人間から受け継いだ無意識から、
    今の私にやってくるのでしょうか?

答え:人は誰でも三万年前にクロマニヨンが持っていた同じ器官やエネルギーを備えた、同じ肉体を持っています。

   ニューヨークで生活を送ろうと洞窟の中で生活を送ろうと、同じ幼少年期の諸段階を過ごし、
   性的な成熟を迎え、結婚し、肉体的な変調をきたし、体力が次第に衰えて、死に至ります。

   同じ肉体を持ち、同じ肉体的な経験をしますから、同じイメージに同じように反応するのです。

   たとえばしょっちゅう出てくるイメージに、ワシとヘビの戦いがあります。
   ヘビは土地に縛り付けられているが、ワシは精神的な飛翔である。

   こういう葛藤は私たちがみな体験するのではないでしょうか?

   そしてその二つが合体したときに、素晴らしいドラゴンが生まれます。
   翼を持ったヘビです。

   ポリネシアの神話、イロコイ族の神話、エジプトの神話、出てくるイメージはみな同じです。

               

目覚めた人


従来受け入れられてきた考えからすると、私たちは自己をイエスと同一視することは出来ません。

けれども約40年前にエジプトで発見された「トマスの福音書」によれば、イエスは
「私の口から飲むものは、私と同じくなり、私もその人となるであろう。」と言ったとあります。

これはまさしく仏教的です。

私たちはみなブッダ意識の、あるいはキリスト意識の顕現でありながら、それを自覚していないだけです。
ブッダとは目覚めた人ということです。

私たちは「ブッダ意識」「キリスト意識」に目覚めなければなりません。

これは通常のキリスト教からは冒涜となりますが、
「トマスの福音書」におけるグノーシス主義においては最も根幹となる考えです。

          

霊魂再生


質問:死者の霊魂が再び肉体を得てよみがえるという、霊魂再生もやはり隠喩でしょうか?

答え:もちろんそうです。東洋の隠喩によれば、もし人が今の生を執着して死ぬと、

   その人はまた戻ってきて、そういう執着から解き放たれるまで、
   自己を清め、清め、清めるような経験を重ねなければなりません。

   再生する個体(モナド)は、東洋の神話では主要な英雄たちです。
   モナドは一生、また一生とさまざまな人格を帯びます。

   そこで再生というのは、今の人格を持ったあなたや私が再び生まれ変わるというのではありません。
   人格とはモナドが脱ぎ捨てるものです。
   そのあと、モナドは別の人格を取る。

   男であるか女であるかは時間領域における執着をきれいに断ち切るために、
   どういう経験が必要かに応じて決定されます。

質問:で、そういう再生の理念は、何を暗示しているのでしょうか?

答え:誰でも自分でそう思いこんでいる〈自分以上の存在である〉ということを暗示しています。

   あなたの生(ライフ〉は今、自分で見ているものよりもはるかに深く、はるかに広いのです。

   今あなたが生きているその生は、あなたに生命を、呼吸を、深さを与えているもののうち、
   ほんのわずかな影くらいに過ぎません。

   それでもあなたはその深みのおかげで生きられるのです。

   そしてもしあなたがその深みを経験できるならば、
   あらゆる宗教はそのことについて語っているという事実に目覚めるはずです。


運命の輪

質問:自分の幸福を追求するとどうなるのでしょう?

答え:無上の喜びに行き着く。

   中世のいろんなものに良く出てくるイメージに、運命の輪があります。
   中心の軸とその周りを回転する縁から出来ています。

   もしあなたが運命の輪の縁に取り付いていたとすると、あなたは頂点から下がるか、
   底辺から上がっていくかのどちらかです。

   でも、もし軸に取り付いていたら、常に同じ位置にいる。

   喜びはあなたがもたらす富なのではなく、社会的地位でもなく、あなた自身の存在なのです。

   無上の喜びを得るとは、そういうものです。

             

   私は1929年に学生としてヨーロッパから帰ってきました。
   ウォール街の大暴落の三週間前でした。
   だから私は5年間職につけませんでした。

   そんな私を支えたのが、無上の喜びを得るという至福の観念です。
   私はこの叡智をサンスクリット語から得たのです。

   超越の大海へ飛び込む崖っぷちを示す三つの言葉は「サット」「チット」「アーナンダ」です。

   「サット」は存在をあらわします。
   「チット」は意識を。
   「アーナンダ」は歓喜と至福を現します。

  「私の意識が正しい意識かどうか分からない。
   自分の存在だと思っているものが、本当に私の存在であるかどうかわからない。

   しかし、私の喜びがどこにあるかは分かっている。
   だったら喜びに取り付いていよう。

   そうしたらそれが私の意識と存在を運んできてくれるだろう」と思いました。

   実際にそうなったと思います。 


質問:私たちは果たして真理を覚ることが出来るのでしょうか?

答え:それぞれの人が各自の奥深さと、経験とを持ち、
    自分自身の「サット・チット・アーナンダ=存在・意識・至福」に触れているという確信を抱くことが出来ます。

   宗教的な人は、死んでから天国に行くまで本当の至福を体験できることは出来ないといいます。

   しかし私は、生きているうちに出来るだけの幸福を経験すべきだと信じています。 


質問:天国はいまここにある?

答え:天国では神様にお目にかかるという途方もない素晴らしさに夢中になって、
   自分の体験なんてしている暇はないでしょう。

   天国は経験するところではない。
   経験をする場所はここですよ。


質問:至福を追及しているとき、何かに手助けさせられている感じを受けませんか?
    私の場合時々そんな感じがするんですが?

答え:しょっちゅうです。実に不思議ですね?
   いつも見えない手に助けられているものだから、とうとう一つの迷信を抱いてしまいましたよ。

   それは、もし自分の至福を追及するのならば、以前からそこにあって私を待っていた軌道に乗ることが出来る。

   (小林:ソニーの天外伺朗さんは、これを「フローに乗る。」と呼んでいます。)

   そしていまの「自分の生き方こそ、私のあるべき生き方なのだ。」というものです。
   そのことがわかると自分の至福の領域にいる人々と出会うことになるんです。

   その人たちが私のために扉を開いてくれる。
   心配せずに自分の至福を追及せよ。

   「そうしたら思いがけないところで扉が開く。」と私は自分に言い聞かせているのです。

   (小林:この現象を真言宗では、南天の鉄塔の扉が開かれるというシンボルで考えています。)