干支から見たアセンション

2008年  戊子〜ぼし(つちのえ・ね)

戊は茂ると同意語で、樹木が繁茂しすぎて剪定して整理しなければならない年廻りである。
子は、新しい生命力が芽生えてくることを意味している。
だからその生命力を伸ばすために、繁茂しすぎた樹木を 整理整頓しなければならないことになる。

2009年  己丑〜きちゅう(つちのと・うし)

己は糸偏をつけた紀を省略した文字で、乱れた糸筋をただして通すという意味がある。
前年の「戊」が樹木の繁茂した状態で、ごたごとしたした多くの事柄を整理しなければならない年である。
己はこれを受けて、筋を通していかなければいけない年回りである。

丑は糸偏の「紐」と同意語で、曲がったものを伸ばすという意味がある。
己も丑も筋を通していく意味があり、正しく規律を立てていくことがこの年廻りである。

2010年  庚寅〜こういん(かのえ・とら)

庚はものが改まる、更新の意味がある。寅はつつしむ助けるの意味がある。
この年は前年の継続を表し、庚と寅とがあいまって、従来の事象を改め新しい筋道を付けていく必要がある。

2011年  辛卯〜しんぼう(かのと・う)

卯は万物生成の順序からいうと、子・丑・寅と伸びてきた植物が、卯に至って少しのびすぎたかなという状況である。
卯の文字は無理やり門を押し開けた形となるため、辛の持つポテンシャル・エネルギーが
矛盾・抑圧を排除して情報に台頭しようとする相を表している。

つまり矛盾・闘争・犠牲を含んでいて、出る釘は打たれるということがおきやすい。
さらに殺傷を含んでいるのは、前年の庚を受けて更新すべきことを実行しないといけないからである。
斎戒・自新の年である。

2012年  壬辰〜じんしん(みずのえ・たつ):

壬は、女偏をつけると「妊」ではらむとなり、人偏をつけると「任」でまかせるとなる。
いずれも同じ意味を持っている。
この年は任されてやり遂げなければならないとか、体内に胎児をはらんで、
大きくなるまで引っさげていかなければならないという年廻りでもある。

辰は雨冠をつけた「震」、手偏をつけた「振」と同意語である。
壬にはねじられるという意味があって、これは任人、奸人に通じ、世の中が激しく揺れ動いているときには、
こういった邪(よこしま)な人間が登場しやすいものである。

2013年  癸巳〜きし(みずのと・み)

巳は、物事が終結して新たに出発する意味がある。
癸は原理原則を立てて、順序に沿って企てを一致協力して進めていくことである。
しかし一旦これを間違えると、一揆や騒乱を招くことになる重要な年廻りである。

十干は生命体とエネルギーの交渉を表し、十二支は生命体の組織と変化の相を表している。
ものはすべて誕生、成熟、老化し、ついに死に至るという周期を持っている。

干支は占いではなく、人の世の出来事、変化を四季の移り変わりのうちに察知し、
それに経験智を加味したものである。

歴史的な人物・徳川家康が、聖徳太子が何をしようと「自分には関係ない」という思想は、
現実だけを見ている単純思考であって、人間は過去の歴史の延長として今を生きているのである。

それを人間は「利己的な遺伝子・DNAの運び屋」と言うのかもしれない。

明治維新のときに文明開化、富国強兵を国是とし、農業国にふさわしい太陰暦を棄てて
太陽暦を選んでしまった日本人は、過去の叡智をも棄ててしまったのだ。

何事も科学的合理主義による解釈をふりかざす時代にあっては、十干・十二支などは
迷信として排除されてしまうかもしれない。

だが人間の生命現象や精神がひとりでに感じる不安や危惧、享楽といった情念の揺らめきなどが、
理念や理性で切り捨てられるはずもなく、人の心の内側に棲んでいる感情や感性の歴史は、
科学ではとても捉えられない。

人は神仏を信じ、愛する人のために行動することはあっても、理論に動かされて行動することはない。
感情の伴わない行動はなく、人を動かしているのは心情であり、情念である。

人はなぜ生まれ、なにを目指していくのかを、生命の流れから見ていこうとすれば、
干支の思考法のほうがふさわしいだろう。

参考: 「干支から見た日本史」 邦光史郎  毎日出版社
     「現代に息づく陰陽五行」 稲田義行  日本実業出版社