出羽三山(月山・湯殿山・羽黒山)
巡礼の旅
探求の旅が始まる


山岳霊場「ご利益の旅」(久保田展弘・著)に魅せられて、
夏のある日、出羽三山に向かいました。

夜行バスで早朝鶴岡着。
人気のない早朝の鶴岡駅から、
ローカルバスで月山8合目まで2時間です。

到着した8合目「弥陀が池」は高層湿原。
黄色いニッコウキスゲ、紅紫のハクサンチドリ、
薄黄色のミヤマキンバイ、小さな白いヒナザクラ。
さながら花々のマンダラです。

昔の人々にとっては、ここが極楽浄土なのでしょう。

     

木道に沿って無量坂を登ると1時間半で「仏生池」小屋。
池塘のそばにはお地蔵さまが奉られ「神仏習合」の歴史を物語ります。

行者返しの急坂は、緑に覆われた山肌にニッコウキスゲの群生。
ところどころの雪渓が山を覆い、軽量のストック(杖)で恐る恐る斜面を横切ります。

     

月山頂上1984mは月読命(ツクヨミノミコト)を奉りますが、
仏教の阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)と同体とされ、
同じように湯殿山は大日如来、羽黒山は正観音と同体と信じられていました。

頂上の月山神社で神主さんにお祓いを受け参拝します。
お手伝いの白装束の若い神官たちが、たまに来る参拝者に緊張して対応してくれました。

頂上からは稜線を一目散の下りです。
牛首、柴灯森、金姥を過ぎると山肌を下る急坂です。
道は修行者のために刈り込まれ、歩きやすくなっています。

雪渓の上を、「道を探しながら」下ります。
梵字川の川原が見えてくるとすぐに湯殿山神社の神域に入りました。

湯殿山でのメッセージ

お祓いをしてこの聖地に入ります。
祝詞の奏上を受け、ヒトガタに切った白い紙を身体の悪い部分を擦ります。

その後、息を三回吹きかけヒトガタを川に流します。
そして清められた身体で神域の中に向かいます。

     

布細長く続く黒塀の奥に湯殿神社のご神体がありました。
それは巨大な櫻島のような岩の固まりでした。
正面に1メートルほどの鏡がすえられ、赤茶色にマダラに染まった岩肌から
熱いお湯が流れ出しています。

そう・・「千と千尋の神隠し」のオクレ様・・・そっくりなのです。
宮崎駿監督はこのことが分かっていたに違いありません。

二礼二拍手三拝の後、ご神体の周りを登ります。
岩肌は噴出する温泉で温められ、山登りで疲れた素足を心地よく癒してくれます。

一瞬にして神氣が身体を包みます。
岩の中腹には、蛇が心地よさそうにお湯を浴びていました。

「語られぬ 湯殿にぬらす 袂(たもと)かな」
と芭蕉の句にありますように、ここはいまでも撮影禁止の聖域なのです。

性のシンボリズム

大日如来の印は智拳印。
性を象徴する、右手の握りこぶし(地水火風空)と、中央を貫く左手の人差し指です。
この熱湯が湧き出る巨石は、尽きない女性の豊穣(水)と山のような岩(地)の
合体を意味します。

ここでも性のシンボリズムが自然崇拝・民族信仰の根深さになっているのです。

同じように月山八合目の付近にある、東補陀落(ひがしふだらく)の岩峰は、
突き上げる男根自身の姿です。

インドのシバ神は立ち上がる男根の姿をし、女神パールバーティーは、
大地でそれを支えるヴァギナの形(大地母神)を意味しています。

立ち上がる岩峰・チベットのカイラス山は、女神としてのマナサロワール湖と、
くぼんだ斜面のある山・ナムナニ峰を南におき、
岩と水のシンボリズムを聖地として選んでいます。

神の「神聖幾何学」は東西とも同じようです。
みな・・・「根源的・集合無意識」の中から選び取った形に違いありません。

蜂子皇子からのメッセージ

その日は湯殿山ホテルで夜を過ごし、翌日は羽黒山に向かいました。

羽黒山は崇峻天皇の皇太子、蜂子皇子(はちのこおうじ)、
あるいは能除仙(のうじょせん)と呼ばれる、
不思議な相貌を持つ三山の開山者が奉られています。
   

有名な図像の皇子は、二人の従者を従えた絵画です。
皇子は後頭部を覆った帽子をつけ、竜頭が蓮の花を咥えた椅子に座り、
両手で数珠を数えています。
椅子は岩磐の上に乗っています。

   

向かって左の赤い従者は杖を持ち、白い従者は右手の剣印を口のそばに置き、
左手で独鈷杵を持っています。

このような残された図像は、古来からのメッセージです。
竜はエネルギーを象徴し、蓮の花は仏教を象徴します。

仏教と聖なる力により結界された皇子が、
数珠を繰りマントラ・ヨーガを修行しているのです。
彼の顔色の黒さは、山岳修行の賜物です。

弟子の持った杖で月山や湯殿山に登り、験力(超能力)を得て
弟子の独鈷杵で祈祷をしていたのです。

ベールの帽子は観音様の頭巾をも意味し、
暗いところに引きこもる(冥想修行をして虚空からメッセージを得る)を意味しています。

紅白の従者は、女性性、男性性の統合を意味します。
岩磐は神の鎮座する場所です。現実世界で行動し情報を得、精神世界で冥想し情報を得る、
両方の神通力を持っていたのでしょう。

修験道とタロットのシンボリズム


秘密を探求することは、錬金術においても同じ意味を持ちます。

「数のない愚者」は蜂子皇子と同じ、直射日光を避ける帽子を被り、杖を持ち、
脚半のようなゲートルをして、これから登る山頂を見上げ、
秘密の真理を探究しようとしています。
その修行は過酷を極めていたらしく、ズボンが破れていても気になりません。
   

「・・斎王」は冥想修行の達人です。
ベールのかぶった奥の部屋で、意識を世界に運び(リモートビューイング=遠隔透視)、
未来の情報を得ているのです。

「・・隠者」は修験者の先生です。
彼の行く手を照らすため、上の位置から明るいライトを彼のほうにむけ照らしています。
平面世界はこの世の価値観。
その上部にあの世の価値観があることを伝えようとしています。

「・・・神の家」はレンガで出来た「突き上げるもの」湯殿山です。
次の「・・・月」は豊穣の水、温泉の流れを象徴します。

「・・・月」はア・ウンの狛犬を入り、二つの塔(鳥居)により結界された場所(神域)
の奥に丸い鏡(池)がある場所を示しています。
そこに映っているものは、あなたの無意識なのです。

「すべては、あなたの心の投影が・・・現実を作り出しているのです。」

現代の修験道


かっては山が未知の世界でした。

修験道の冒険者たちは真実を求め、その知的好奇心を満たしていました。
山は京の都の勢力の及ばないところでもありました。

レイキ発祥の地・鞍馬山も反政府の象徴の場所だったのです。
勧進帳

源の頼朝の怒りを恐れた義経は、金売り吉次(錬金術師?)の道案内で、
奥州に逃げ延びようとしました。

鞍馬から奥州までの裏道が、修験者により切り開かれていたのです。
この情報を持っている人々が、金を奥州より運んでいた吉次の一行でした。

逃げる途中の「安宅関」で関所役人・富樫と修験者先達・弁慶の駆け引きが
歌舞伎「勧進帳」のクライマックスです。

疑いを掛けられた主人義経をかばい、修験者の証明をするために、
弁慶は巻紙をサラサラと開き、何も描いてない紙を読上げます。

「山伏といえば、役の行者の行儀を受け、その身は不動明王の尊容をかたどり、
(頭に付けている)兜巾(ときん)といえば五智(如来)の宝冠なり。

十二因縁のひだを据えていただき、九会マンダラ(金剛界)の柿(色)のスズカケ、
胎蔵・黒色のハバキを履き、さてまた八目のワランジ(わらじ)は、
八葉の蓮華を踏まえたり。

( 釈迦誕生の際、歩いた場所に蓮華が生じたとする伝説)

出て入る息に、ア・ウンの二字を唱え、即身即仏・山伏を、ここにて打ち止め給わんこと、
明王の照覧・計りがたく、熊野権現(ゆやごんげん)のご罰を、当たらんこと、
たちどころにおいて疑いあるべからず!!」

武蔵坊・弁慶は主人「義経」を打ち据えて、見かねた「富樫」が許す下りです。
多くの密教の論理がこの言葉の中にも潜んでいます。

歌舞伎ファンの方にはどこまでお分かりになるのでしょうか?
このように認識が世界を作っているのです。

真実の情報(賢者の石)を得る

現在は世界が広がりました。
修験者は未知の冒険に挑戦し、その情報を持っているからこそ偉大だったのです。

ところが地理的な冒険は19世紀に終わり、
世界は大国連合により統合されようとしています。

情報は均一化され、隠された情報を得ることは難しくなりました。
マスコミは権力側の情報を垂れ流しています。

その情報洗脳に遭い、私たちは「いかに生きるか」さえ見失ってしまいがちです。

真実はそこら辺に転がってはいません。

杖を持ち「なぜ、なぜ、なぜ?」と探求し続けていかないと、
「賢者の石」は獲得できないのです。

これが密教(真実は隠される)の道なのです。

空海は「如来が隠しているのではない。
あなたの意識レベルが(低いので)隠しているのだ」といいます。

さて・・・いつになったら、「真実の光り輝く世界」を発見できるのでしょう?