イイカゲンとは「良い加減」ということです。
あるとき、お釈迦様が断食の苦行をしていました。
当時の修行者は肉体の欲望を煩悩(worldly desires・社会的価値観)と考え、
煩悩から離れることが覚りを得ることであると考えていました。
私たちの心は、社会的価値観(煩悩)に薫習(くんじゅう/imprint--刷り込み)されてしまうと考えていました。
この喩えは大変強烈な印象を与えます。
悪い習慣によって心が燻製の肉のように、中まで真っ黒になってしまうと考えているのです。
だからこの燻製のような欲望の煙から離れなければならないと思い、
人々の住んでいない山や森の奥に避難(refuge)しようとしていました。
こんな極端なことをしないと、社会的価値観の刷り込みから離れられないのでしょうか?
確かに、この社会に住んでいるとさまざまな洗脳に会い、社会的価値観を刷り込まれてしまいます。
チベット密教ではこの喩えを、「かごの中の鳥」で表現しています。
私たちは生まれながらにして、どこへでも飛んでいける、完全な光り輝く存在です。
それが親の言葉により、檻をかけられてしまいます。
檻はその当時の社会的価値観です。
「勉強しなければいけないよ。」「「お金を持つことが幸せだよ。」
・・・・多くの檻があります。
この檻を一つ一つはずすことにより、覚りが開けるのです。
あるとき釈迦は断食の苦行をしていました。
頬はこけ、あばら骨は浮き上がり死臭さえも漂い始めていました。
川に面して座禅している釈迦の前を、船が通り過ぎました。
船の上の船頭は、ギターを手にして歌を口ずさんでいました。
「♪ ♪ ♪おいらのギターは良いギター。(ギターの弦は)張り詰めすぎると切れてしまう。
緩めすぎると音が出ない。ちょうど良いのがおいらのギター・・・♪ ♪ ♪」
この歌を聴いて釈迦は中道(middle way)の思想に目覚めました。
「肉体の欲望が悪くて、魂が良い!!」という考え方は間違っていることを。
苦行をやめた釈迦の前に、村娘のスジャータが通りかかり乳粥を供養しました。
仲間の修行者は、釈迦が供養された乳粥を食べている姿を見て、
「彼は修行を捨てた、臆病者だ」と噂し合いました。
ところが釈迦はそれから、ブッダガヤの菩提樹の下に座り長時間の瞑想の末に覚りを開いたのでした。
彼は「涅槃(nirvana・解脱)を求めて、はからずも(偶然)覚り(enlightenment)を得た」のでした。
弘法大師・空海は『無辺の生死いかんが能く断つ、ただ禅那・正思惟のみあってす。』
繰り返し転生して苦界にさ迷っている状態を断つには、
正しく深い思考法と禅那(ディヤーナ・瞑想)をすることしかない と述べています。