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異端のキリスト教・カタリ派が唱えた信念が
「イエスとマグダラのマリアは結婚していた。」なのだ。
時の教皇イノケンティウス三世は、
カタリ派とそのシンパ、ラングドックの貴族たちの態度に苛立ち、
アルビジョア十字軍を組織した。
北部フランスの人々は彼らの富の収奪と、異端撲滅を目的に
アルビジョア十字軍に参集した。
虐殺は1209年7月から始まった。
シモン・ドゥ・モンフォール軍はベジェの町において
カトリック信者たちに、カタリ派の引渡しを命じた。
拒否された十字軍は総督より「全員抹殺」を命じられ、
一万五千人の男女子供が殺された。
そのうちカタリ派は222人に過ぎなかった。
当時唯一、十字軍に打ち勝つ力を有していたのは、
宗主権領土を持っていた、アラゴンの王・ピーターだった。
1213年9月トゥールーズに攻め込んだアラゴンの軍は、
ドゥ・モンフォール軍に破れ、ピーターは処刑されてしまった。
しかし、1215年から1225年にかけて、多くの都市が団結して十字軍に対抗した。
1217年アラゴンの軍の助力を得たレイモン7世がトゥールーズを奪回、
1218年6月、十字軍の悪名高き指導者、ドゥ・モンフォールは
女性グループが操作する投石器から放たれた石に当たって、憤死してしまった。
長引く十字軍との戦いに見切りをつけた、レイモン7世は1229年、
パリ協定を受け入れトゥールーズに異端審問所が設立された。
カタリ派は片っ端から集められ、拷問を受け、火にかけられた。
血も凍るような異端審問の実態は、周囲一体に甚大な不安を引き起こし、
トゥールーズ、コルデ、アルビ、ナルボンヌでは暴動が勃発した。
迫害されたカタリ派の信者たちは、ピレネー山脈の奥に築かれた砦で最後の戦いを繰り広げ、
モンツェギュールの戦いでは、205名のカタリ派全員が歌を歌いながら丘を降り、
行き着いた平地で火あぶりの刑に処せられた。
そうして1255年8月、長きに渡った戦いに終止符が打たれた。
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