霊魂の存在  「精神病は病気ではない」の著者・萩原玄明先生との対談
2004年3月14日、心療内科医師で真言宗仲間の村上信行先生と共に、
萩原先生のお寺、八王子の長江寺を訪問いたしました。
お二人と共に昼食を共にしながら精神病についてのお話を伺いました。
途中説明会をはさみ、お話は夕方まで続きました。

萩原
 八王子は精神病院の多いところです。
 20年前お寺に縁があって突然飛び込んでこられた強度の精神病者の方との出会いにより、
 治療法を試行錯誤してまいりました。
 その後、数え切れない事例と向かい合い、一つ一つ確実に結果を出しています。

 精神病の治療は異常と思われる激しい症状を抑えてしまう薬を投薬するだけで、
 それでも手に負えない場合は、電気ショックというような人権的にも問題のあるような、
 衝撃を身体に与えて何らかの変化を期待する治療もあります。
 現代の医学では精神病を肉体の病気と見て治療をしています。

村上
 そうですね。私も「心の病」に接し多くの方と接しお薬を出すのですが、
 症状を抑えるだけで改善に向かうことが少なく、
 さまざまなグループ・ワークやヨーガ、鍼灸、アロマテラピーなどを試みています。

萩原



 医学での治療効果がはかばかしくないので、親御さんは宗教にすがりつきます。
 しかし「困ったときの神頼み」という言葉があるように、
 苦しみを取り除いてくださいと頼んでも、神仏はそんなことのために存在するものではありません。

 自分自分と、何でも自分を中心に据えた思いで、悪いことは追っ払ってと頼んでも
 神仏はそんな勝手な願いを聞いてくれるはずはありません。

 人間がなぜ生まれてくるのか、なぜ死ぬのか、その本当のところは人間には全然わかっていません。
 心というものがそうであるように、
 目には見えない理屈を超えた大きなものによって人間は生かされているのです。

 精神病にかかった子供たちは心を盗まれてしまっているのです。
 誰に盗まれたかというと何者かの「意識体」によって憑依されてしまったのです

村上
 現代医学は心と身体は別のものだということで発展してきました。
 私は心の病気は宗教を学ぶことによって解明できるかと思い、高野山真言宗で修行しました。
 しかし現代の宗教は形式化してしまい、なかなか参考になりませんでした。

萩原
 電気ショックは憑依した憑き物「狐」を叩き出す昔の方法のようです。
 が、私の経験では出て行けと命令しても簡単に出て行くものではありません。 

 動物霊が憑く事などはありません。
 なぜならば、憑依してくる死者の意識体を、私は現実のものとして
 この目で見たり聞いたりしているからなのです。

 先祖の死者の意識体は生きていて、強い後悔があると地上をうろつき、若い子孫の子供に憑依するのです。
 強い後悔があっても死を自覚できた意識体は、魂の世界に帰るのだと気づきます。

 私は死者本人に向けての「語りかけ」をすることで、

 死者が自分を知ることが出来、憑依が解けると考え、実践しています。

小林
 先生の成仏に導く方法は「チベット死者の書」とそっくりですね。
 チベットでは死んだ魂は、身体の各チャクラから出て転生すると考えています。
 下のチャクラから地獄、餓鬼、畜生、人間、阿修羅、天界に転生し、
 頭頂から出ると成仏すると考えています。

 ですから死後にお坊さんは死者の書を読み聞かせ、本人が死んだことを納得させるのです。
 これをしないと死者の魂は障りをもたらすと考えているのです。

萩原


















 日本では神主が死者を拝めば神となり、僧侶が拝めば仏となると信じています。
 引導を渡すとは「迷わず成仏しなさい。」と伝えることです。
 このような習慣を鵜呑みにしてしまっているから、
 お経を聞くだけで儀式が滞りなく終わったと思ってしまうのです。

 ご先祖も仏様も拝んでお願いすれば何でもかなえてくださるというのは、現世での価値観です。
 これでは単なるご利益宗教です。
 10円のお賽銭では10円分、じゃあ100万円ならば100万円分の見返りがあるのでしょうか?

 私たちはつらい体験を通して死者からの教えを受けているのです。
 一口で言えば、それは生きている今を正しく暮らせということです。
 人間の一番大切なものはお金でなんでもなく、心だということです。

 今だからこんなことを話していられますが、かつて失敗の連続だった頃
 自分が法則を違反しながらカミが協力してくれないのを「なぜだ、なぜだ」と言いつづけていました。
 ついにはそれまで熱心に祈っていた祠を橋の上から川へ投げ捨ててしまいました。

 すべてのものを投げ捨てることにより、私に残されたものは、私の命ただ一つになりました。
 そのことが大きな転機となって、奥深い魂の教えをカミからいただけたと信じています。

 どなたにもカミとは別に肉親だった者のやさしくて厳しい浄化霊の背後霊団が、見守ってくださっているのです。

 私の霊視は他の方とだいぶ違います。
 まず除籍謄本で父母の両方のご先祖を調べていただきます。
 その後私が霊視をした情景を元に憑依している方々の名前をご依頼のご両親が探ります。
 名前がわかった方々を一人一人供養していくのです。

 この供養とは名前を告げて一人一人に語りかける私独自の方法です。
 一人また一人と供養していくことによって、症状の一つ一つが次第に軽減していくのです。

霊の存在

萩原先生の体験は英国のスピリチュアリズムの交霊界を思い出させます。
中でも有名な霊はモーリス・バーバネルをチャネラーとして降りてきた高級霊シルバー・バーチです。
なんと1920年から1980年までの60年間ものメッセージを残しているのです。
ハート出版からたくさんの本が出ていますので、参考にしてください。

真言宗でも霊の存在は常識です。
護摩行の後には低級霊に対しての供養もしますし、毎日の施餓鬼(飢えた霊に対する供養)は欠かせません。
先祖供養自体が先祖の霊なしには存在しない考え方なのです。

この翌日、哲学者で仏教思想家の苫米地英人さんと対談しました。
彼によれば霊魂は仏教からは遠く離れた考え方なのです。

儒教では死者の霊は魂魄(こんぱく)に分かれ、
魄は骨に、魂は遠い山に住んでいてお彼岸の時に魄のある墓に帰ってくると考えています。

霊魂の考えは純粋な仏教思想の中には無いのです。
ですから真言宗は儒教化・ヒンズー教化した仏教なのです。

しかし私にとっては仏教思想が大事なのではなく、
多くの人々が霊魂を信じているという思いに興味があります。

タイに行っても、ネパールに行っても、もちろんチベットでも、
そしてイギリスでも霊の存在を信じるのです。

苫米地さんによれば「心の内部に刷り込まれた思いが作り出している幻想=霊」となるのですが、
人はそのように簡単に理性的にはなれません。

同席した中国人気功師チャン・ツーのおばさんは中国大陸で霊を降ろすチャネラーとして生活しているのです。
認識が世界を作っているのですから、霊があると思えば見えるし、無いと思えば見えないのかもしれません。

ヒンドゥー教のサドゥーは墓場で瞑想しますし、チベット仏教では霊が骨につかないことを確信するために
僧侶は大腿骨の骨で使った笛を吹いたり、頭蓋骨の杯で儀式をします。
でもそれは一般信者の思想とはかけ離れたものなのです。

私自身の体験では意識がボンヤリとなる時に霊を感じるときがあります。
若いころヒッチハイクをしながら旅行し、房総の社で寝袋で寝ていた時には、
憑依霊の存在を感じ眠れない体験もありました。

苦しんでいる時に夢枕に立った男の人の助言で、救われたこともあります。
その日は亡き祖父の命日でした。

真言宗のお経は多くの仏の名前を唱えますが、これは大霊(ハイヤーセルフ)の霊団を呼ぶようなものです。
真言宗では思いが物に憑くと考えています。
神社などの御祓いという行為は、身体についたネガティブなエネルギー(思い)=霊?を払い落とす行為なのです。