日本のアカシック・レコード探訪・2
(6)東大寺


日本の歴史で、世界的にすごいところは、聖徳太子の存在(存在しなかったという説もあるが)が、
あったということだ。

権力の頂点にいる人間が、仏教という思想を理解し普及しようとしていたことが素晴らしいと思える。

「世間虚仮・唯仏是真」

The world is illusion, Buddha world is real.

この世の価値観は幻想。(肉体を離れた)仏の世界こそ真実の世界。

でもその次に、聖武天皇が「東大寺」を「智識寺」として創ったことが、素晴らしいことだった。

聖武天皇は、「自分で命令して寺を作ることは難しくないが、みなで力をあわせて創りたい。」
として、勧進を始めた。

勧進とは:1・人々に仏道を勧めて善に向かわせること。
       2・社寺仏像の建立のために、金品を募ること。

このために、「小僧」と呼ばれて政府から嫌われていた「行基」を大仏建立プロジェクトの先頭に立たせ、
民衆の心を仏教に向けることが出来た。

行基はそれまで諸国を巡り、民衆教化や造寺、池堤設置、橋梁架設などの社会事業を個人で(勝手に)行っていた。
その人気は高く、政府は反政府運動になることを恐れていた。

聖武天皇が智識寺(布教のための寺)を作ろうとしたのは、
藤原の血を継ぐ藤原不比等の子・四人が相次いで死亡したことが原因です。

怨霊のたたりに違いないと思った聖武天皇は、懺悔の意味を込めて、東大寺を創ったのです。

「死を思え=メメント・モリ」こそ、真理を求める原動力になるのでしょう。

皇后の光明子も藤原不比等の娘であることを恐怖し、悲田院・施薬院を作り貧民救済を目指したのです。

神奈川県・大山の大山寺を開いた「良弁」は、最初の東大寺別当です。

彼は二歳のとき桑畑で金色の鷲にさらわれ、東大寺の杉に大木の上に置かれていたのを、
猿に助けられ、修行を積み高僧になったという逸話の持ち主です。
いまでも、二月堂の下には、良弁杉が植えられています。

東大寺は華厳宗のお寺です。
華厳宗は、言葉で表せる最高の教えを秘めていると空海は考えていました。

華厳の教えである一即一切重々無尽(時間と空間は畳み込まれている)が、
大仏(毘廬遮那=宇宙仏)の蓮華座に描かれています。

現代物理学も、やっといまこのレベルに到達したのです。
それは観察者原理として、発見されました。

因縁生起・・・縁起の思想は、独立して存在するもの(我)などないという真実を、
今でもわれわれに語りかけてくれます。

(7)唐招提寺


「異なる世界に暮らすわれわれだが、仏に帰依するよしみで、共に縁を結びましょう。」
と書かれた「天武天皇の息子・長屋王」の千枚の袈裟の漢詩を読んで、
鑑真和上は、法律を犯して日本に渡航することを決心した。

それから12年、五回の渡航チャレンジで失明の苦労を乗り越えて、和上は日本に到着し、
伝戒師として唐招提寺に招かれた。

井上靖氏の「天平の甍」はこの彼のひたむきな思いを詳しく伝えている小説だ。

聖武天皇のライバルであった「長屋王」は「左道を学んで国家転覆を考えている」という讒言により、
729年邸宅を包囲され自害をして果てていた。

藤原一族の陰謀であると言うことを知っていた聖武天皇は、長屋王の怨霊におびえ、
745年東大寺を創建、754年に鑑真を招き戒壇院を設立したのだ。

多くの寺の陰の設立目的が・・怨霊封じになっているのだ。

それこそが、世間虚仮・・唯仏是真・・なのかもしれない。

(8)薬師寺


680年天武天皇は皇后(持統天皇)が病に伏せたとき、病気平癒を願って薬師寺建立を発願し、
100人の僧を得度(出家)させた。
するとたちまち、皇后の病は癒えたのだった。

ところが同じ月に天武天皇が病に伏せ、皇后は再び100人の僧を得度(出家)させた。
このおかげで再び天皇の病は平癒したのだった。

薬師寺建立は天武天皇の死後も続けられ、文武天応の手を経て698年に完成したのだった。

やれやれ・・・病気になるたびに寺を作っていたら・・坊主が何人も出来てしまうぞ〜!!
でも・・私も・・今年の三月で42人の人を「得度」に導いたね〜。
よ〜し、100人目指して・・頑張るぞ!!
でも〜私の奥さん(皇后)は・・病気ではありませんのでご心配なく。

この功徳(メリット)を、世界平和に回向(廻し向ける)したいですね!!

(9)法隆寺


いや〜、法隆寺は謎が多くありすぎて、書くのがためらわれます。
詳しくは梅原猛氏の「隠された十字架」を読んでいただくとしましょう。

この本には、夢殿の聖徳太子・等身大像とも言われる「救世観音」の頭部に直接光背が突き立てられていて、
それは呪いであり、聖徳太子の祟りを封じ込めるための寺が法隆寺だという意見が述べられています。

日本書紀は、聖徳太子の息子、山背大兄王を死に追い込んでいったのは、蘇我入鹿だったと記録しています。

聖徳太子を素晴らしい人として祀り上げ、かたや蘇我入鹿はそれだけ悪い人物だったと、
強調していることが不思議なのです。
怨霊信仰の頃は、祀り上げる人に腹黒いところがあるはずなのです。

本当に蘇我氏は悪人だったのだろうか?
蘇我入鹿を殺した中臣鎌足(藤原鎌足)は、その後の藤原家一族支配をみると・・どう見ても悪人なのですが?

日本書紀の歴史観とは何なのでしょうか?

チベットのお坊さんに「あなたの考えていることは、誰かの言ったこと」というコトバが・・
うかつに人の言葉を信じないぞという、へそ曲がりの私を作ってしまったのでしょうか?

 夢殿


 
五重塔の上部の輪には、なぜか「農作業の鎌」が
 魔物を追い払うように置かれています
(10)当麻寺


飛鳥の東・三輪山より昇った彼岸のときの太陽は西の二上山の二つの峰の間に沈みます。
当麻寺のこの場所が、浄土信仰をもたらしました。

**中将姫伝説

聖武天皇の時代、右大臣の地位にあった「藤原の豊成」の娘が「中将姫」です。
中将姫は、父が観世音菩薩に祈願して誕生した、愛娘でした。
ところが継母に疎まれ、あろうことか中将姫は母からの刺客である武士に殺されかけました。

この武士は、中将姫を殺せず山にかくまうのですが、殺さずにいると、
彼にも刺客を向けられてしまいます。
思いあまって、豊成の家臣の娘の生首を切り、継母に届けるのです。

そのいきさつを聞いた中将姫は、「私が早く死んでいれば、このような可愛そうなことにはならなかったのに。」
「返す返すも恨めしいのは、前世の宿業。恐ろしいのは未来の果報。」と語ります。

その後、中将姫は17歳で当麻寺にて剃髪、蓮の糸で大曼荼羅を織り上げ始めます。
織り込む作業に夢中になっている彼女の目の前に、阿弥陀如来が現れ
「13年後に願いをかなえる。」といって消えていきました。

13年後の3月14日、「私が娑婆の穢土にいるのもあとわずか。」と喜び沐浴して身を清め、
端座合掌していると、日付が変わる頃、紫雲がたなびき、一条の光明が雲の絶え間から
中将姫を照らしたと思うと、彼女は眠るように息絶えました。


そして、中将姫は25菩薩に導かれ、光の道を登って極楽浄土に向かったということです。
この中将姫伝説は、かぐや姫の話の元になったぐらい人々に語り継がれていたそうです。

このような伝説を残し、いまも当麻寺の西方(西方浄土)二上山に夕日は沈んでいきます。

         

アカシック・レコードを読む

弘法大師・空海は虚空蔵求聞持法により、金星を飲み込むという不思議な体験をしました。
それ以降、抜群の記憶力が授かったといわれています。

その行法とは「ノウボウ・アカーシャ・キャラバヤ・オン・アリキャ・マリボリ・ソワカ」
と唱え続けることなのです。

この時の、アカーシャがサンスクリット語で「虚空」、キャリバヤが「蔵」という意味に当たります。

また彼は「宇宙は本箱です」という言葉も残しています。
虚空の中にある情報を、読もうと思えばすぐに読めるという意味です。

この虚空は宇宙の遥か彼方にあるのではありません。
密教では「並行宇宙論」を考えていますので、いまこのままにして虚空から情報が取れる
と考えています。

密教の輪廻観では、意識体(心=マイクロチップ)が肉体(ハード)という容器に入り、
この世を体験し、肉体の死後その記憶データーをデーターベース(虚空蔵)にインストールして、
再び新しい肉体(ハード)をもらい、この世に再生すると考えています。

この世に出現するときに過去世の記憶を忘れますが、無意識の中に埋め込まれているだけなのです。

この無意識のデーターベースにアクセスする鍵が、虚空蔵のマントラなのです。
心理学者ユングはこの無意識が、人類共通の普遍的集合無意識であると解説しています。

つまり人類の過去がデーターベースとして、すべて自分の記憶の中に内在しているのです。

日本のアカシック・レコード探訪として、奈良の遺蹟探訪記を書きました。
それは、自分という存在が、個人から・・東京人となり・・日本人となり・・
地球人となる過程をたどり、宇宙意識へと成長する途上にあるからです。

日本の思想の核である、仏教や神道はどうやら百済や新羅や隋や唐から来たもののようです。
多くの渡来人の影響が見逃せません。
また騎馬民族の影響もあるのです。

そうなると、何が日本人なのでしょうか?
そのように枠をつけることが妥当なのでしょうか?

いまは、日本人VS韓国人などといって、対立をあおる時代なのでしょうか?
コトバは、同じ地球人という意識を分断する役割をしています。

アダムとイヴの時代に戻って、世界の平和を考えたいものです。