日本のアカシック・レコード探訪・1
(1)飛鳥寺(法興寺)


蘇我氏の寺:飛鳥寺(法興寺)

密教とは・・・「隠された真実を探る智慧を持て」という教えだ。

私たちは、真実が隠されていると言うことを知らない。
これを「無知の智」とか「オカルト」とかいう。
 
人は「自分の認識の範囲を超える情報」に接すると、噛み砕くことなしに吐き出してしまう。

ところが密教研究家(僧侶や神官やオカルティスト)は、その複雑にこんがらがった「自己の認識を超える情報」にこそ、
秘密が隠されていることを知っている。

アカシック・レコードとは「自己の認識を超える情報」の詰まっている記録のことをいう。



アカシック・レコードとは、人類の歴史が詰まった書物だ。

西洋では「聖書」がアカシックレコードの根幹を成していた。
神とは何かを語っている書物だ。

日本のアカシック・レコードが神の歴史を描いた「記紀=古事記・日本書紀」である。
神道と仏教の歴史が、日本文化の核心にある。

神道の思想に仏教が習合して、神仏習合の日本の仏教思想になった。

空海は「声字実相」というが、それは「記紀」の秘密が読み込める能力を必要とするのだ。



その最初は、「日本書紀」に書かれた・・物部守屋と蘇我馬子の対立に始まる。

欽明13年(552年)、百済の聖明王からもたらされた「仏像」を、
蘇我は「西蕃諸国は、みな礼拝している。」として賛成派に、
物部は「蕃神(あたしくにのかみ)を祀れば、国神(くにつかみ)の怒りを買うでしょう。」
と反対派に回った。

この決着は用明2年(587年)蘇我馬子と皇子たちが、物部守屋を討ち果たす。
その際参戦していた「聖徳太子」は、守屋を打つためには「願掛け」をしなければと、
霊木を削り「四天王像」を彫りだして祈願した。

すると物部の軍は面白いように崩れていったという。

日本最古の仏教寺院は、物部氏が亡くなった翌年(588年)、法興寺(飛鳥寺)で建築が始まった。
現在の飛鳥寺では想像もつかない大規模な四天王寺式の大伽藍が建造されたのだ。
このために僧侶、寺院建築の工人、仏画絵師、などが百済より渡来した。

高句麗からも僧侶が訪れ、「慧慈(えじ)」は聖徳太子の指導僧として活躍した。

ただしこの寺が奇妙なのは、寺院の心臓部ともいえる塔の礎石に埋められた「舎利」が
極めて日本的なものであったことだ。

舎利が本物であるかは置くとして、ヒスイ、琥珀、水晶、銀、勾玉、馬具、刀子などの、
古墳(祖霊信仰)に入れる埋葬品が副葬されていたのだ。

蘇我氏の寺、法興寺(飛鳥寺)は日本の祖霊信仰を行いながら、仏教建築を習合させたことなのだ。


法興寺(飛鳥寺)


蘇我入鹿の首塚


飛鳥大仏
(2)京都・六角堂


聖徳太子が四天王寺建設のために、材木の木を伐採するために六角堂の地を訪れた。

すると念持仏(ねんじぶつ)が、木陰で根が生えたように動かなくなってしまった。
しかも夢の中に「如意輪観音」が現れ、
「我は7世を経て、汝の本尊となった。だから、汝はこの世で衆生済度せよ。」と告げた。

そこで太子はこの地に六角堂を建てたという。

この六角堂は、浄土真宗の祖・親鸞聖人の示現の場でもある。

12年間比叡山に篭もり修行を続けた親鸞は、会得することなく失意のうちに、1201年19歳で山を降りた。
その足で、聖徳太子の奇跡を求め、親鸞は京都・六角堂での百日参篭に入った。

そして95日目の暁時、救世観音が白衣で現れ、
「修行者であるあなたが、もし過去世の因縁で、女犯するというなら、
 私が玉女(パートナー)となって、相手になりましょう。
 豊かな暮らしを出来るように守り、臨終に際してはあなたを極楽に導きましょう。」と語った。

この体験の後、親鸞は妻をめとり「愚禿(ぐとく)=愚かでハゲ頭の」親鸞と名乗り、
やさしい教え・・・浄土宗の道を求め続けた。

六角堂は、北側の池で、聖徳太子が沐浴したとも伝えられ、別名を池坊とも呼ばれ、
華道・池の坊の発祥地になっている。

この六角堂での修行は、聖徳太子の偈文(マントラ)を一心に唱える行法で、
いまでも親鸞の修行を表わした像が祀られている。



 白鳥は聖なる鳥・・・若き釈迦と白鳥の図像が有名だ。
 ヨーガの偉人・パラマハンサ・ヨガナンダのハンサとは、
 超越する(パラマ)白鳥(ハンサ)。
 日本武尊も白鳥となって空のかなたに飛び去ったという。

 六角堂の北側にある「池の坊」の池に遊ぶ二羽の白鳥。



眠気に耐えながら行をする親鸞上人
(3)広隆寺


秦河勝の広隆寺

京都・太秦の広隆寺は東映・太秦映画村の南にある。
JRで太秦まで行き、南に10分下ると秦河勝の古墳ともいわれる「蛇塚古墳」がある。

元は全長75メートルの前方後円墳だったというが、いまは住宅街の真ん中で、当時の面影はない。
石室は全長17,8m、高さ6,8mの巨大さだ。
飛鳥石舞台の「蘇我馬子の墓」とも比較したいほどだ。

広隆寺は、京福線「太秦駅」の北側にある。
603年、聖徳太子から預かった仏像を祀る場所として、広隆寺は建立された。
現在のご本尊は、「秘仏・聖徳太子三十三歳像」だ。

秦氏一族の出自は謎に包まれているが、渡来人の中でも殖産にすぐれ、
水田の開発や養蚕(織物)で巨万の富を稼いだとされている。

絹織物はシルクロードを通ってヨーロッパにも広まったのだ。
シルクの語源は新羅(シルラ)だといわれている。

聖徳太子の心強いブレーンでもあったようだ。

広隆寺から東に5分歩くと、木島神社(きじまじんじゃ)に出る。
蚕の社として有名なこの神社には、秦氏ユダヤ人説を裏付けるような「三つ鳥居」がある。

謎に包まれた、広隆寺・太秦周辺を歩くと、大陸の人々が多くの知識を持って渡来した、
飛鳥時代にタイムスリップしてしまう。

このような時代を通って、空海の時代に至るのだから、この時代の歴史の真実を知らずには
「密教的思考法」をもたらすことは出来ないだろう。

 蛇塚


広隆寺


三つ鳥居
(4)元興寺


元興寺(がごうじ)はいまでは奈良町界隈の中心に位置する。

日本霊異記によれば、元興寺の鐘楼に、悪霊の変化(鬼)が現れ人々を恐れさせたという。
そこへ尾張の国の大力の雷神の申し子の童子(子供)が現れ、鬼を退治したという。
そしてこの子供が神格化し、八雷神・元興神と呼ばれるようになった。

古代より、たたる鬼とは神でもあった。
アニミズムにおいては大霊の和魂(にぎみたま)が神であり、荒魂(あらみたま)が鬼であった。
二面性を持つ大きな霊を神とか鬼とか呼んだのだ。

雷神は破壊の力を持つ荒御魂、稲妻となると稲に命をもたらす神・・稲荷(稲成る=意成る)は和御霊。
だから天に向かって聳え立つ巨木は、神の依り代であり御神木に成るのだ。

鬼は、同じ鬼の力を持った、童子により成敗することが出来る。
このような鬼のことをユング心理学では、トリックスターと呼び、タロットでは手品師と呼ぶ。

そしてまた、空海のような密教の僧も鬼の一人なのである。

タロットでも、天使と堕天使(悪魔)は表裏一体なのである。

大霊の表の部分は、天皇が神である。
ところが裏の部分は天皇により弾圧された大霊が鬼となるのだ。

古代では大自然の天地異変は、大霊(サムシング・グレイト)の怒りによって顕現すのだから、
怒りを収めることによって、大霊は豊穣の神となることが出来た。

さて元興寺の南西側には、桓武天皇により断罪され、無実の罪で断食死した
弟の早良親王を祀っている御霊神社がある。
この怨霊を鎮めるには、お経の読呪が効果的だという信仰が、飛鳥・奈良・平安を通じて確立した。

密教僧は陰陽道の呪詛返しなどの祈祷を通じ、天皇に認められてきた。

そしてまた、物部守屋を殺した「聖徳太子」も瓢髪(ひさごがみ)をした童子として、描かれている。
これは太子が鬼である事を表わしている。
その聖徳太子(山背大兄皇子)一族を殺したのが、蘇我入鹿なのである。



元興寺の山門


御霊神社の立て札
 瓢髪の聖徳太子(法興寺)
(5)談山神社


乙巳の変:

645年・中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)は
蘇我入鹿を殺して新政権を樹立した事件。

蘇我入鹿は朝鮮三国の使者を迎えて、儀式はつつがなく進んでいた。
暗殺計画を知っている倉山田石川麻呂は恐怖で声が乱れ手が震えてしまう。

それを見た入鹿が「なぜ震えているのか?」と尋ねると
「天皇のおそば近くで恐れ多くて、汗が出るのです。」とごまかす。

この状態を見て中臣鎌足は、入鹿の頭から肩にかけて切りつけた。
入鹿は足を切られ転倒し、御座の奥にいる皇極天皇に「私に何の罪があるのか?」と尋ねる。

皇極天皇の質問に息子である中大兄皇子は「帝位を傾けようとしています。」と答え、
中臣鎌足は入鹿の首を切り落とす。

このような形でライバルを退けた中臣鎌足は改名し、藤原家1000年の栄華を築きあげた。

この藤原鎌足の眠る神社が、奈良の山奥にある談山神社である。

次男の藤原不比等が、持統天皇に仕え「日本書紀」の編纂に関与し、
歴史書は藤原好みの書として編集されてしまった。



談山神社入り口


藤原鎌足の霊を祀る本殿は陰惨とした雰囲気だった